【前回の記事を読む】馴染みのスナックへ向かう道中、男が出くわした「悪い予感」
監視社会の抜け穴
たとえ話
「すみません、私もお話に加わって良いですか」
私の隣の席に、背広姿でサラリーマン風の男が、水割りを片手に腰掛けてきた。眉毛が細く真っ直ぐで、細身の顔、七三分けが良く似合う。三十代中頃か。人間誰しも初めての人には、その容姿容貌に目が行く。ところがその情報がまだ揃わないうちに、男は突然話し始めた。
「実は妻が浮気をしてまして。私は社内結婚なんですけどね、相手はなんと私が目を掛けてやった後輩なんですよ。しかもそいつに貢ぐため、夜の仕事にまで手を出して。帰りは夜中、食事の用意もしません。毎日ギャーギャー煩くて。とっくに夫婦生活も無いんです。その割に金はせびるんですよ。もう屈辱以外の何物でも有りません。考えただけで腹が立ちます。だからその完全犯罪という奴に、私も混ぜて貰えないかと思いまして」
「いやっ、さっきのは冗談ですよ。だけど、えっ何、奥さん、殺そうと考えてるんですか」
「良い方法が有ればね。貴方、探偵なんでしょ。それなら良い方法を教えてくださいよ」
「やめておいた方が良いですよ。完全犯罪なんて、人間そんな事をするのは、ほとんどの人が人生に一度、一回こっきり、謂わば素人だ。必ず足がつく。それを暴くのが探偵ですから」
「だから探偵の貴方に相談してるんじゃないですか。私ね、絶対に口を割らない、贔屓にしているメッキ屋が在るんですよ。そこから青酸カリを手に入れて、そっとカップに塗っておいて、自殺を装って殺してしまおうかと思った事が有るんですよ」
「あっ、それはドラマの見過ぎ、大嘘です」
私は美香チャンが目の前に置いてくれたアールグレイを手にしながら、こんな説明を始めた。
――青酸カリの致死量は200 mg。分かりやすく言うと、1カラットが200mg。1カラットのダイヤの指輪を、コーヒーカップの取っ手に付けている様なものだ。しかも空気と反応して毒性が無くなってしまう。よしんば青酸カリを飲ませたとしよう。杏仁豆腐の様な風味で、メタリックな味がするそうだ。こんな物、あまりのまずさに吐き出してしまう。
ちなみに、青酸カリは酸と反応して、猛毒の青酸ガスを発生する。青酸カリを飲めば、胃酸と反応してガスを発生し、肺から血液、そして細胞内へと入り、低酸素により壊死し、個体である人間が死んでしまう。俗に言うアーモンド臭がするというのは、このような化学反応による。
だから青酸死した人のにおいを嗅ぐ時は、注意しなくてはいけない。アーモンドのにおいと言っても、甘く香ばしいものでは無い。アーモンドの実の甘酸っぱいにおいである。