第二項 明治維新の新国家のサイズ
*国歌「君が代」・公用語「日本語」
*国家元首明治天皇(睦仁天皇一八六七~一九一二)
*軍事力武家政権(封建体制下)の武士集団であったが、新政府は二十歳以上の全国民を対象とする「四民参加徴兵制」をとる。この徴兵制発令により、士族から武力闘争の専門職を取り上げることになる。一方で、軍人勅諭により平民にも「一命」を以て天皇陛下に奉じることを約束する。神州日本の子・天皇の支流たちであるの認識。
*皇軍・御親兵(後の親衛隊)時の兵隊数は七〇〇〇人。内、薩摩士族兵約四〇〇〇人と言われている。しかし、この人数は定かでない。筆者はここでは松下芳男の徴兵制定史にある一万人説をとる。然し、そこはあまり問題ではない。読者の皆さんが知りおくことは親衛隊の総都督は西郷隆盛であり、「薩・長・土」三藩の兵で構成されており、そのうちの半数以上の負担が薩摩藩であったことは明確にして知りおけばよい。読者はこの事実が後の明治維新の政府の行方に大きな影響を与えることになっていくことをこの時点でしっかりと押さえておかれたい。
薩摩士族の傭兵は当主島津久光の自認するところであり、国内最大の実力藩であった。その指導者は一二代藩主島津忠義の父親である島津一族の当主久光であることを天下に知らしめておきたい強い願望があった。従ってこの御親兵の負担状況は久光の所望する名誉な行為であったことを明確にしておく必要がある。なお付け足し知識であるが往時の最大実力藩は一〇〇万石の加賀前田藩や、独眼竜で有名な伊達政宗六二万石ではなかったことと、討幕、維新も全て西国大名が中心であったことも御一新政府の常識として知りおこう。