(二)大和朝廷の覇者(飛鳥・弥生時代を含む・五九二~七九四) 推古天皇~桓武天皇、上皇の政権
ここでは大和朝廷を南九州から畿内に渡ってきた神武天皇から平城京遷都までをさす。このあたりの歴史は古墳・遺跡が発見される度に見識が分かれる。古事記・日本書紀から見る判断や情報も多いが、中々新説が定着しない。日本国の初代の神武天皇は神話の時代に近く、紀元前六六〇年といわれている。大和時代の覇者は天皇家の外戚であった藤原氏族であろう。
娘を天皇の后として、子孫を創り(創りとは、必ずしも、藤原氏族であるか不明の場合も含む意)、若年で即位させその天皇の祖父として摂政・関白の地位に就く。ありとあらゆる官職は高級氏族が独占した。
聖徳太子(厩戸皇子)もこの時代。中国の明国への留学僧や遣隋使・遣唐使も多い。唐の都から律令制度を学び、平城京の体制を築いた。仏教が五三八年伝来し、欽明天皇時代に盛んとなり平城京、平安京の時代にも社寺の建立が盛んにされた。
(三)王朝国家・平安時代の覇者(七九四~一一八五) 桓武天皇~後鳥羽天皇
白河上皇等の院政と平氏一族との軋轢・葛藤が続くも、平清盛に代表される平氏一族が武士として、院や御所を護衛するが、幕府を開き政治に関与していたわけでもないから政権のある覇者とは言われない。しかし奢れる平氏久しからずと揶揄されるが、平家一門の活躍はそれなりに評価されるべき。背後に源氏一族の姿が忍び寄っていた。
(四)武家政権による鎌倉時代・執権政治(一一八五~一三三三)後鳥羽天皇~光厳天皇
源頼朝による初めての武家政権。武士の棟梁で征夷大将軍の役職を天皇より賜る。一部封建制度を取り入れるが、領地保証が充分ではなかった。それまでは洛中京都のある西国方面に政治の中心があったが、初めて関東地区の鎌倉に幕府が設営されて、源氏一族の空気は幾分変化するも、北条氏の執権政治となる。なお島津氏の頼朝の御落胤説については第五章第一節において詳しく触れることを予告案内しておきたい。