【前回の記事を読む】『日本書紀』の記述に誤り?法隆寺大火災は一体いつ起きたのか
『上宮聖徳太子伝補闕記』
ところが、『補闕記』の編者は、自信を持って行った訂正が別の重大な問題を起こしていることに気付いていませんでした。
たしかに、『補闕記』が主張する推古天皇十八年(六一〇)の干支は、天智天皇九年(六七〇)と同じ庚午であることに間違いはありません。しかし、『補闕記』が訂正した推古天皇十八年(六一〇)四月は、二十九日までしかない小の月だったのです。
おそらく、『補闕記』の編者は、天智紀の執筆者・編纂者たちが原史料の干支を誤解し、法隆寺大火災を六十年後の天智天皇九年(六七〇)四月三十日においたと考え、その間違いを訂正するために年次を六十年さかのぼらせ、推古天皇十八年(六一〇)四月三十日としたのです。
ただこのとき、『補闕記』の編者は、推古天皇十八年(六一〇)四月が三十日の存在しない小の月だという基本的な事実を見落としていたのです。
実は、天智天皇九年(六七〇)四月三十日の法隆寺大火災が、仮に誤りであったとしても、大火災の年次を干支一運早い推古天皇十八年(六一〇)に変更することで解決できるほど、単純な問題ではないのです。『補闕記』の編者の着眼は鋭いのですが、残念なことに彼は法隆寺大火災の発生年月日に隠された重大な秘密に気付かないまま、問題を矮小化していたのです。
一般的に、干支で表記されている場合、干支一運を間違えることは珍しいことではありません。このため、通常は『補闕記』の編者が行った訂正は有効な場合が多いのです。しかし、天智紀の法隆寺大火災の記事にこの方法を安易に適用したことで、小の月に三十日があるという新たな矛盾を生んだうえに、天智紀の法隆寺大火災が伝える重要なメッセージにも気付かなかったのです。
『補闕記』の編者は、その冒頭で自信たっぷりな宣言をしているわりに、意外と頼りない側面があるようです。しかし、それでも『補闕記』の編者は、天智天皇九年(六七〇)四月三十日の法隆寺大火災は誤りとする見方が、平安時代初期に存在したという重要な手掛かりを残してくれました。