古代中国の完成まで
戦国時代~西安の時代へ
東周時代の後半(BC四〇三~BC二二一)を指す。晋が軍事的に秦に征服されるまで政治も経済も七カ国があった。乱脈な下克上だったが、文化的には「諸子百家」が活発で知的な今日の中国哲学を形成した。
晋を三分割して、諸侯に封ぜられてから、秦の始皇帝が全国統一に至る期間は、西安付近を首都とする場合が多かった。始皇帝は秦帝国の初代としても(BC二二一)、その皇帝支配体制の創立者としても、歴史的に重要な人物である。現代でもただ「皇帝」と言えば「始皇帝」を指す。
秦帝国創立前の秦王国の時代に都を陜西省咸陽に置き、その北東部の平野に約一八六〇万アールの大用水路をつくり、耕地を開き、民政を安定させた。このニュースは全中国に伝えられ、驚愕させて、既に始皇帝は中国の実権を握ったとされる(ただ二三〇年の工事で図面とか詳細な文献が残っていないのは誠に残念である)。
BC二三七年頃から独裁を始め、勇猛な将軍を派遣し、群立していた六国を次々に滅ぼし、BC二六年天下を統一。郡県制、焚書坑儒(儒教は孔子の思想で教学も祭祀も総称する)等を強行し、国家政策上の思想を帝自らに集約した。一方、南方への領土を拡大し、ほぼ西域、欧州にも名を広めた。万里の長城や阿房宮などを築き、大土木工事を着工したが、外征と共に、国民には大きな負担を与えた。
秦(シン)の名前は、その勢いに乗じて西域からシルクロードを経て東欧に達し、現代欧米語の「China(チャイナ)」とか、日本で通称される「シナ」の語源になる。第二次世界大戦中に日本はやや侮蔑の意味でシナ人とか呼んでいてマスコミもこの国名を使ったが、「シナ」は始皇帝以来の尊称で日本人の態度は失礼である。石原慎太郎氏は「シナ」と国名として使っているが日中戦争時の記憶として私も時折使う。
中国もあまり神経質にならない方がよい。日本の最下品な連中は「チャン〇〇」などと言っていたが、これはよくない。喧嘩言葉だから忘れた方がよい。
始皇帝は国内的には他にも度量衡、貨幣、文字も統一するなどして、現代にも伝わる中国のイメージができた。この頃は西安も咸陽の名の方が通っていた。
始皇帝は全国の富豪一二万戸を、ここに移住させ、また自分が破った諸侯の宮殿を模倣した宮殿をここに建造して、「阿房宮」の名をつけた。中国史上建築的に最も大規模であったろうが、諸侯の妻妾たちを住まわせたので、宮殿の数は二百七十に上ったといわれる。秦が滅びると、咸陽の諸宮殿、阿房宮ともに項羽(こうう)によって焼き払われた。このとき阿房宮は三カ月間にわたり燃え続けたという。
私の妄想だが、現代の感性強い若い映画(テレビ)監督にCGを駆使してこの「阿房宮大炎上」を一大スペクタクルに仕上げてもらいたい。一つの時代が究極に達した時の絢爛豪華な大破滅を現代と感じさせること。すなわち「コロナ破滅」を製作してもらいたいということだ。勿論悲劇だから一つの美の終点はよくないが、逆に新しい世界文化の芽が生まれることを期待する。
人間の悪というべき欲望は実にはかないものだということの視覚化だろうが、何も今の中国共産党政権の行方とか、日本の「夜の街」文化の一掃とかに結びつけなくてもよい。「空」の境地から始めることだ。