動機は不純な方が好い《三十一歳〜三十二歳》

七カ月余の丁稚奉公を終え広島に帰り、専務取締役の肩書の入った名刺を手にした恭平は、一週間も経たぬうちに帰郷したことを後悔していた。

あらゆる面において広告代理店との違いはもちろん、北原屋との差も歴然としていた。

広告代理店では十時だった出勤時間は、早朝の五時に早まり、週休二日だった休日は、元日と翌日だけの「年休二日」に減り、残業代や賞与はゼロになって、年収は半減。

しかし、これらは予測していたことだから納得もできた。

恭平が我慢できず、サラリーマン時代には感じなかった強いストレスを感じたのは、社長である父親や常務である弟との葛藤だった。

父親が社長を務める「ひろしま食品株式会社」は、S公社の工場と支社、そしてH信用組合の三事業所、合わせて一日千食余りの従業員食堂を業務委託されていた。

また、住宅街の片隅にある建坪百五十坪程の倉庫を賃借し、セントラルキッチンとは名ばかりの工場において、千食余りの給食弁当に加え、注文数が日々変動する折詰弁当の仕出しを行うと共に、市中に十数店舗の小さな弁当ショップを運営して、年間の総売上は四億円を少し超えていた。

従業員食堂は、安定はしていたが単価は低く従業員数は徐々に減り始めており、給食弁当や折詰弁当は、他社との競合が激しいものの品質とサービス次第では売上を伸ばす余地は充分にあった。

大きく経営の足を引っ張っていたのは、弁当ショップだった。以前からその点が気になっていた恭平は、父親に弁当ショップの撤退を進言したが、折角伸ばしてきた売上が減ること、売上が減ると資金繰りが苦しくなることを理由に、却下された。

確かに毎日の現金収入は魅力的だが、配送コストや店舗の賃借料、人件費などの販管費、そして売れ残った商品のロスは、将来とも改善の見通しはなかった。

恭平は、入社と同時に毎朝五時前に出勤していた。

その時間には数名の調理担当者が出勤しているだけで、社長や常務の姿はまだ見えない。

調理技術を持たぬ恭平は、他人より早く出勤してゴミ置き場の掃除に専念した。

大きなポリバケツや漬物樽に入れられた十数個の生ゴミは前日の業務終業時、道路に面したゴミ置き場に纏めて置かれ、深夜にゴミ収集業者が生ゴミを回収し、早朝には、空になったバケツや樽が乱雑に放置されていた。

恭平は、散乱するバケツや樽を一つ一つタワシで手洗いし、定位置に配置する。

その後、ゴミ置き場の床をデッキブラシで洗い流し、その勢いを借りて箒と塵取りを手に、工場に面した道路の前後左右を三軒先まで清掃して歩く。