新宮寺隼人は在藩している藩主義政の御座所に伺い、異国船が嵐で坊の入り江に座礁したことを報告した。幕府への報告を義政に了承しておいてもらう必要があったからである。
報告を聞いた義政は、「船のことがわかっていないのに、慌てて幕府へ報告することもなかろう」と、もっと詳しく調べてからでいいのではないかと云う。この時点で、異国船の船籍もわからず、生存者もいないことを聞いた藩主義政のほうが、落ち着いていたとも言える。
隼人は異国船が武装していると聞いたときから、もし異国船と戦いになればということが頭に浮かんでいた。それで、ちょっと焦り気味だったかもと反省もしたが、その後の対応は速く、軍奉行の萱野軍平に噂にならぬよう異国船を始末せよと命じた。
座礁した異国船について、とりあえず幕府には、船名はパレード号、船籍は不明であると、指示を仰ぐ形で報告した。幕府は異国船の難破座礁という報告に驚いたが、船籍は不明で生存者はいないとわかると、外交問題は起こらないと判断した。それでも一応、長崎の出島に問い合わせ、そこからの返事で、そんな船名の船の記録がないと知ると、事なかれ主義な幕府は河北藩に勝手次第と沙汰した。
ただ一人、若年寄りの榊原頼母は、公然の秘密だったが、以前から河北藩は富山藩とともに薬種の抜け荷をしていることもあり、異国の帆船と聞いて興味を示し、実際はどんなものか調べろと隠密を派遣した。隠密の名は左平次と言う。体はさほど大きくなく、がにまた歩きで、とても有能な密偵に見えないのだが、身のこなしは軽く、人の印象に残らないようにと目立つ振る舞いは一切見せないほど用心深かった。
左平次が河北藩に入ったのは、命を受けてから八日後だった。普通なら十二日以上かかる。ようやく噂を頼りに鷲の嘴の山に潜り込むことができたが、坊の入り江の湾内は岩礁があるだけで何もなかった。左平次が着いたときには、座礁した異国船は火をかけて燃やしてしまった後で、その後の悪天候ですべてが洗い流され、跡片もなくなっていたのだ。
鷲の嘴の頂から東の山裾を見ると、広い砂浜の窪地があり、そこに陣が敷いてあった。なかにおびただしい荷物があったが、大砲とか鉄砲とかの武器の類は見当たらなかった。それならばと、左平次は吹の村を探ろうとしたが、警備が厳しくて近寄ることさえできなかった。