【前回の記事を読む】「私の味方になってくれるはず」新たな同僚との共通点とは…

看護専門学校入学式

尾因市医師会のドンである村山は、昭和五十八年に医師会長になった。人望のある男であったので、三年後に看護専門学校を創立した。

そんな村山が教務主任の国田を採用した時に「国田の言う通りにさせてやれ」と藤本の後任として副学校長にした久船に言ったのは、村山は教務主任という人材はなかなか田舎にはいるものではないことを知っており、国田が辞めると開校して間がない学校の将来が危ぶまれるからだった。

自分が医師会長の時代に開校した学校であり、学校長であることから、なおさら学校に過度の愛着があるのかもしれない。酒に酔った時は、「わしの学校」と言うこともある。

こうして国田は最高に強いバックアップを得て、女性が故に徐々に傍若無人な態度をとってしまうのではないかと予想している医師会員もいた。事実、藤本の退職後、副学校長の久船の職名は名ばかりで、実質的運営は教務主任が握ることになった。すなわち、就任時より看護専門学校の女のドンの雛が誕生したのである。

国田は昭和六十三年四月に赴任してから、前年度の学校行事一覧表に目を通した。四月第一月曜日は始業式である。今年は三年生と二年生のみの始業式で、外部の人を招く必要もないので、講堂で簡単に行われた。当日は教科書の購入があり、学生にはカリキュラムを配布し単位取得についての説明がなされた。

入学式は四月第一木曜日であった。前副学校長の藤本久美子が資料を残してくれていたので、前年度通りにすることにして、行事形式を見てから、自分なりの改革をしようと目論むことにした。国田が教務主任となって最初の大きな行事は入学式で、四月一日から勤務して、四月七日木曜日午後一時からの入学式が挙行されることになっていた。

学校の主な行事は開学以来、木曜日に定めているが、その理由は尾因市の開業医は木曜日午後を休診にしているところが多いことにあった。何故に木曜日にしたかは商店街の店は木曜日に休業していたので、商店街と近隣の診療所がそれに合わせたとのことであった。

前副学校長の藤本が開学してからの二年間の主な行事そのもののマニュアルを残してくれており、また、四人の専任教員の協力を得て国田は特に苦労することなく入学式を挙行することができた。入学式終了後は一般にオリエンテーションがある。

この学校は定時制であるため、勤労学生扱いで、すでに三月下旬に制服採寸と所属医療機関とのマッチングを終え、学生は入学式後は就労開始という状態である。したがってオリエンテーション後は学生は保護者と一緒に所属医療機関を訪問することになる。学生としての第一歩、社会人としての第一歩が同時に訪れ、期待に胸を膨らませ、また一抹の不安とが交差しながら、所属医療機関へ向かう予定になっている。