恭平がチャランポランな人生を歩むきっかけになったのは、小学五年生の夏休みに聞いた父親の自慢話だった。
「お父ちゃんは、子供の頃から勉強をしなかった。勉強はしなかったが、成績はいつも学年で一番だった。勉強して一番になることは、誰だってできる。勉強しなくても一番になれる奴が、本当に偉いんだ」
大正三年、鳥取県の山深い田舎の貧しい農家の三男坊として生まれ、旧制中学に進むことが叶わず、海軍兵学校に入り下士官として終戦を迎えた父親の他愛もない屁理屈に、十一歳の恭平はいつになく素直に感服した。感服した証しとして、恭平は直ちに実行した。何を実行したかと言うと、勉強しないことを実行した。
それまでの恭平は、臆病者のくせに負けず嫌いのガキ大将で、案外な優等生だった。放課後は日が暮れるまで家の近くの公園やお寺の境内で遊び回り、家に帰って夕食を済ませると律儀に宿題を片付けた後、図書館から借りてきた本を読み耽り、興に乗ると荒唐無稽な物語を夜遅くまで書き綴ったりしていた。書き上げた物語は学校に持って行き先生に見せ、時には給食時間に校内放送で自ら朗読して悦に入っていた。
五年生になると同時に恭平は、先生から学習委員を仰せつかった。学級委員ではなく、学習委員である。学級委員は学期毎に選挙で選ばれるが、学習委員は年間を通してその任に当たる。その任とは、毎日出される宿題ドリルの「答え合わせ」を先生に代わって行う重責である。
学級委員にも選ばれていた恭平は、二つの重責を独占していることに、秘かな優越感を抱いていた。そんな恭平が、父親の自慢話を聞いた二学期から宿題を放棄して遊び呆け、毎朝の答え合わせに臨むようになった。毎朝の授業前に同級生と向き合って教壇に立ち、宿題の答え合わせをする恭平のドリルは、見事に白紙だ。白紙のドリルを開いた恭平の手には、長い赤鉛筆と掌に収まるほどの短い鉛筆が握られていた。二本の鉛筆の活用法は、こんな具合である。
「それでは、算数のドリル十五ページ一番の答えの解る人はいますか? はい、小山君」
「はい、答えは32です」
「いいですか皆さん、32で合っていますか?」
「合ってま~す!」
この「合ってま~す!」の大合唱を聞いてから、恭平はおもむろに短い鉛筆で「32」とドリルに書き込み、直後に長い赤鉛筆で丸をつける。つまり、恭平は毎朝教壇で級友と向かい合い、答え合わせをしながら宿題をしていた。答えが解ってから解答する恭平の宿題は、当然ながら、いつだって百点満点である。
しかし、時に困ったことが起きる。
「合ってま~す!」が大合唱とはならず、二重唱三重唱に割れることがある。そんな時は、教壇横の机で何やら事務作業をしている先生に教えを乞う。教えを乞うためには、答えが割れたドリルを先生に提示しなければならないが、恭平のドリルはそれまでは全問正解。以降は白紙の状態だから、先生に見せる訳にはいかない。
そこで、自分のドリルは裏返しにして、さらに念のため下敷きを重ねて目隠しして、最前列の級友のドリルを取り上げ、先生に教えを乞う。
「先生、この問題の正解が解らないので教えてください」
先生はおもむろに立ち上がり黒板に向かい、説明を加えながら問題を解き、正解を提示して机に着く。机に着いた先生と入れ替わり恭平は教壇に立ち、「皆さん、解りましたか!」あたかも自分が問題を解いたかのようなしたり顔をして、下敷きの下のドリルを引っ繰り返して答えを書き込み、意気揚々と丸をする。