そして、メキシコ側では金網に両手をかけて立ち、羨望ともあきらめともつかない目つきで、米国を見続けている多くのメキシコ人男性がいる。男というものはないものねだりをするものなのか、それとも現実逃避的なのか、そのほとんどは壮年の男性で、何をするでもなく、ただ金網越しに豊かな米国を一日中凝視している。暗く沈んだ顔つきで。それに比べて女性や子供は無理なものや困難なものを素直に受け入れ、現実的に対処しているのか、そのような人々は見当たらない。
さらに、ティファナの街に入ると、あの米国の豊かな物資や生活が跡形もなく消え、ダンボール紙を石で押さえて作った傾いた家や、板切れを集めて作った家々ばかりが密集している。もちろん電気、ガス、水道、トイレなどはない。道路は未舗装の穴ぼこだらけで、至る所に水溜りができている。人々はいつ洗濯したのかわからないような泥色に変色した着物を着、そんな人を満載したおんぼろバスがものすごい音と排気ガスを撒き散らしながら走り回っている。
旅行者であるわれわれには子供たちが物を売りつけに来、タクシーがしつっこく乗車を迫る。特に子供の物乞いが多く、五歳くらいの男の子が無言でちょうだいの格好で両手を差し出して豊かな米国からの旅行者にお金をくれとまわり、小学三年生くらいの男の子がせむしの妹を連れて人々にそのせむしの妹を見せて金をせびる。
一方では金を無心するのではなく、靴を磨かせてくれと旅行者について回って必死に働く子供も多い。金網越しに一日中米国を眺めている男の大人たちに比べて、ここの子供たちはたくましく生命力にあふれ、生活力旺盛である。
しかし、この元気な子供たちもあまりの貧富の差を毎日目の前に見せつけられると徐々に精神が萎えてきて、国境の金網にへばりついている大人たちになってしまうのだろうか。
こんな著しい経済格差が隣り合っているところで、低い経済力の国に生を受けて、隣の高い経済力の生活を毎日目の当たりに見せ付けられ、さらには人為的に設定された国境によって自由に往来・居住の選択ができない国民は悲劇であり、むごい。