【前回の記事を読む】あこがれの中南米旅行で…20代の青年が目にした悲惨な生活
第一章 米・中米・南米の旅
金網の国境 米国(ロスアンジェルス)→メキシコ(ティファナ) 一九七二年一二月一八日
ティファナのバスターミナルでメキシコシティまでのバスチケットを買うと、その職員に「なんと勇敢なボーイよ!」、と変なほめられかたをされる。確かにティファナからメキシコシティまでは約二千八百キロメートルの長距離である。これは青森~鹿児島間約千九百キロメートルの約一・四七倍という距離である。だから、十八日の十八時にティファナを出発したバスは四十六時間かかって、約二日後の二十日の十六時にメキシコシティに着く。
バスは二人の運転手が交代で運転して時速百キロメートルくらいの速度で走る。その運転手はなぜかわれわれに向かって「ススム」、「タナカ」と呼びかける。そうじゃないとわれわれの名前を教えるのだが、顔が会うたびにススム、タナカを連発する。
英語が通じるような移動手段やホテル、場所にいく旅行であれば問題ないが、現地の人と同じような、あるいはそれよりも廉価な場所・手段を使った旅行をするためには、その国の最低限の言葉は不可欠である。しかし、われわれは中南米をバスや鉄道を使って、その国の人々に混じって旅行するというのに無謀にもスペイン語を勉強しないで旅行を始めてしまった。
このため、この旅のはじめの一週間ほどはスペイン語が話せないのでレストランで食事も注文できずに、パンとコーヒー(スペイン語でも日本語と同じ発音)しか食べられない始末。これは死活問題なので、その後必死になってスペイン語を覚え、一ヶ月後には何とか文句を言ったり、日常会話ができるようになった。
語学能力がないと言われる日本人でも必死になれば生活するための最低限の語学習得はなんとかなるということである。しかし、なんとかスペイン語が話せるようになったアルゼンチンの後はブラジルでここでの言葉はポルトガル語であるが、これはスペイン語をフランス語風に発音することによって何とか通じた。
それでも、ブラジルからコロンビアに行ってスペイン語が使えることに安心感を覚え、さらに再び米国に帰ってきて英語が使えてホッとしたのは自分ながらおかしかった。日本からロスアンジェルスに来た当初は、ほとんど英語さえ話せなかったのだから。