尾因市医師会立看護専門学校が開校し、学校長は村山(むらやま)(ひろし)医師会長が兼務し、開校直前には副学校長兼教務主任として、広島県庁の健康福祉局医務課に勤務していた参与で看護師の藤本(ふじもと)久美子(くみこ)が二年の勤務の約束で着任し、その後、学生募集も教員確保も順調に進んだ。

藤本の後任となる人物を学校長は自分の出身大学の知人に依頼した。その知人から国田(くにた)克美(かつみ)という人が推薦されたが、国田は大阪市に在住しており、医師会員は誰一人として面識のある者はいなかった。そこで看護学校設立に尽力した医師会長の村山が国田とアポを取り、国田に面会するため、村山は新幹線で三月に大阪に行った。

特殊な資格のある教務主任候補は藤本の後任としては国田しかいないため、村山は新しい学校なので国田に学校運営のすべてを任すからと尾因市医師会立看護専門学校への赴任を懇願した。

尾因市は大阪よりも国田の実家のある岡山県倉敷市の方が近く、通勤可能なことから良い条件であったが、国田は一発で承諾せずに、一週間待って下さいと返事を保留した。国田は実のところ同意しても良かったが、もったいぶってみせたのだ。

一週間後には村山に「先生の熱意には負けました。よろしくお願いします」と自ら電話を入れたのであった。

晴れて国田は憧れの教務主任となったが、医師会立という学校が何となく気に食わなかった。その理由は、国田は看護師として勤務時代に医師と恋愛関係にあったことが二度もあり、二度とも失恋した経験があった。

国田は、意見が対立すると、親しい間柄でも、誰に対しても激しい気性が表れることを抑制できないことがあり、勝ち気な性格が災いとなったと思われる。以来医者嫌いとなったのである。このようなことがあり、村山への即答を避けたのかもしれない。

二度目の失恋直後に故郷の倉敷市の父より婿養子縁組みの話があり、国田は年下の温和(おとな)しい男性と結婚した。夫は女性に優しい性格であったため、かかあ天下の家庭となり、夫婦仲は良いが、これまた養女であった克美の国田家は二代に渡って子宝に恵まれなかった。

尾因市医師会立看護専門学校の勤務が始まる直前に、大阪から倉敷市に引っ越し、学校まで五十キロメートルの距離をJR山陽本線の電車で約五十分かけて尾因市に通勤することになった。

国田はこの往復一時間四十分の通勤時間を学校の運営、教育方針、学生とのコミュニケーションの確立などを思慮するために有効利用し、教務主任としてさらに高揚し、看護師養成への熱意を全身全霊で打ち込む決意をしたのであった。