健一は電話ボックスに、体当たりするような勢いで走って行くと、ドアを剥ぎ取るような勢いで引き開けた。左手で電話の受話器を取ると、右手でポケットの中を探って十円玉を見つけて、ガタガタと震えながらやっとの思いで投入口に入れて、一一〇番に電話した。そして健一は、

「もしもし、便所の中で赤ん坊が死んでいます。早く来てください」

と、やっとの思いで言った。息はゼイゼイし、なんだか頭もフラフラする健一は、電話ボックスの透き通ったガラスの壁に、よたれかかるようにして立っていた。健一とは逆に、電話の向こう側の警察官は、拍子抜けするほど落ち着いた声で、

「それでは、お名前と、住所を教えてください」

と聞いてきた。あわてている健一は、

「便所に落ちてる赤ん坊の名前なんか分かりません。私の住所は秋吉市です」

と、なんともとんちんかんな答えをした。

すると、電話の向こうの警察官は、乾いた声で、しかし、丁寧に優しく、

「落ち着いてください。まず、赤ん坊が落ちている家の住所を言ってください。ゆっくりでいいですから」

と聞き返してきた。

健一は、やっと我に返った。そして、きっと自分の言っている内容が錯綜しているだけではなく、言葉がはっきりしないから、聞き取れないんだ。と思った。

健一は人と話をしているとき、よく聞き返されることが多い。言語障害のせいだ。特に電話で話すときや初めての人と会話をするときは、緊張で無意識に口の周りや舌の筋肉が硬直して発音が乱れる。たとえばタクシーに乗って行き先を伝えても、なかなか運転手が聞き取れないのと容貌や身体の動きがおかしいので、

「お客さん、降りてもらえますか。チョット困るんで」

などと言われて、乗車拒否をされたりした。

なんとか警察に現場の住所や、その家の苗字が白鳥であることなど大体の状況を粗々伝えたあと、会社にも連絡をした。電話に出た事務員でもある社長の妻、勝代は、

「エエッ……それは大変だわ。チョット待ってね」

と言うと、

「紘一さん、紘一さん、大変よ」

と慌てて大声で社長を呼んだ。健一はそれを電話口で聞いて、「社長を社員が名前で呼んで社内業務をするところなんかは、アットホームな、いかにも家族経営って感じがしてホンワカしていいなあ」などと一瞬ボーっと、関係のないことを頭に浮べていた。

しかし、健一は次の瞬間、「こんなときなのに、俺は何考えてるんだ」と思い返して頭を激しく振った。健一は、それで自分が相当混乱していることに、改めて気がついた。