1998年5月22-25日(金-月)サンクトペテルブルク紀行-ヨーロッパへの窓、ピョートル大帝の夢-
先月のイスタンブール紀行でトルコのEU加盟の議論がありました。
ソ連崩壊前のロシアは、EUはもちろんヨーロッパの一員と見るかについても議論はありましたが、ソ連崩壊後はEUはともかくヨーロッパの一員としての認知は向上したようです。
地理的にはヨーロッパとアジアの境界はウラル山脈、ボスポラス海峡ですが、文化的にはキリスト教社会かどうかがヨーロッパと非ヨーロッパとの境界であり、宗教を迫害(24)した共産主義下のソ連が欧米から白い目で見られた背景です。
2週間前に行ってきたアムステルダムが、ロシアのヨーロッパ化の過程に関係していました。
ピョートル大帝(在位1682年~1725年)は1697年から1年半以上にわたり西欧の先進的文明を学ぶための使節団を率いて西欧諸国を訪問し、当時世界で最も繁栄する町オランダのアムステルダムで4ヵ月間、東インド会社のドックでみずからハンマーを手にして造船技術の習得にあたり、1698年にはロンドンでさらに4ヵ月間造船、海運について勉強しました。
サンクトペテルブルグはピョートル大帝が1703年にヨーロッパへの窓として建設した都市で、彼の意図は外国貿易と重商主義政策で、遅れたロシアの西欧化を実現するためロシアのアムステルダムを造ることでした(ピョートル大帝のオランダさらにはヨーロッパへの心酔は少年時代に外国人村でオランダ人と交流した頃から始まったようです)。
実際に歩いてみると、両都市は運河の規模・形から運河沿いの建物まで非常によく似ています。
彼の業績はまずトルコとの戦争によって黒海への出口を確保したことと、1700年から21年間にもおよぶスウェーデンとの北方戦争の勝利です。
スウェーデンは1648年のウェストファリア条約によって三十年戦争の戦勝国としてバルト海南岸に広大な領土を手に入れバルト海帝国を形成していました。
ピョートル大帝は1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンのカール12世(在位1697年~1718年)を打ち破り北東ヨーロッパ地域におけるロシアの優位を方向付けました。
ただ、専制君主として新首都の建設、徴兵制実施、長期間の戦争によってロシアの農民を苦しめ評判の悪い面もあったようです。