何故ウィリアム3世がイングランド王になったのか

バックグラウンド

17世紀は、すべてのヨーロッパ諸国でプロテスタントとカトリックの間の激しい競争の時期でした。本質的にこれは、フランス、スペイン、ローマ教皇の同盟と、イングランド、オランダ、および様々なドイツの侯国の同盟との間の戦いでした。

チャールズ1世(在位1625年~1649年)が斬首された理由の一部は、カトリック軍に議会の反政府勢力を鎮圧するのを手伝うように頼むという彼の「反逆的な」行為でした。

緊張増大

カトリックのジェームズ2世(在位1685年~1688年)がイングランドとスコットランドの王位に就いたあと、ヨーロッパの宗教勢力図は非常に複雑で、やや不安定になりました。オランダは彼らに対するイングランド/フランスの同盟を恐れていました(または少なくともイングランドの中立を確保したいと希望)。この状況では、オランダ軍から多くのイングランドとスコットランドの連隊が脱落した可能性があります。

さらに、ジェームズ2世は、概ね無関心な態度(彼はチャールズ1世の斬首からほとんど学んでいない)だけでなく、ジェームズ2世がイングランド法からプロテスタント要件制度1を廃止しようとしたことによって、彼の支持者、特にプロテスタントの支持者と敵対していました。さらに、ジェームズ2世に息子が生まれたため、カトリックが王位に就く可能性は明確になりました。モンマスの反乱2を見逃してはなりません。

これは、イングランド人の支持なしに王位を簒奪しようとした反乱者がどんな目に遭うかを明確に示していました。ウィリアム3世とイングランドの王位との憲法上のつながりは、ジェームズ2世の娘(メアリー2世<在位1689年~1694年>)との結婚を通じてさらに強化されました。


※1:王政復古期の1673年、イギリス議会が制定した法律で、国教会信者以外の者は官職に就けないとして、カトリック勢力の排除をねらったもの。

※2:モンマスの反乱(MonmouthRebellion)とは、1685年6月21日にイングランド・スコットランド・アイルランド王に即位したジェームズ2世に対して、甥で先代国王チャールズ2世の庶子のモンマス公兼バクルー公ジェームズ・スコットがみずからの継承権を主張して起こした反乱です。この反乱は政府軍により鎮圧されました。政府軍の指揮を取ったのはジョン・チャーチル、後にアン女王からマールバラ公爵に授せられ、サー・ウィンストン・チャーチルのご先祖となった人です。