婆須槃頭からの手紙

親愛なる笹野忠明様。インドに来られてインタビューを受けたのが昨日のことのように思い出されます。あれから日本に帰られてその後お変わりはありませんか、私、婆須槃頭ばすばんずはあの後『マルト神群』の撮影にかかりきりでした。

やっと完成して試写をインド首相他多数のVIPを招待して行いましたが、皆一様に黙り込んで感想を漏らしませんでした。彼らはとにかく面はゆかったのでしょう。なんとなればインド神話があのように映画スクリーンにあからさまに出てきては自らの内面を剥き出しにされたようできまり悪い。そういったところでしょう。

あの映画のタイトルシーンを覚えておられますか。マルト神群のタイトルの前に、倉皇爽籟そうこうそうらいという文字が出てきますがどういう意味か解りますか。辞書を引いてお調べください。マルト神群の隠された意味を知ることになるでしょう。

その次がロシア映画との邂逅でした。『野に立つ白樺』と『悪霊』の二本です。監督は同じでしたが二本とも、全く毛色の違った映画で大いに勉強させていただきました。

話は変わりますが、私は曾祖父のシナ戦線での話を曾祖父自身から聞いたことがあります。曾祖父は北支の太原たいげんで終戦を迎えました。そして蒋介石の国民政府の捕虜となりました。警察官だったのですが赤紙で応召され北支戦線を転戦しました。

そのころのシナは全くの非衛生状態でとにかく汚かった。ハエや虱との共存生活に自分たち日本軍も慣れっこになっていったものだ、と話していたそうです。現地のシナ人ともとにかく気安く付き合って、全く悪い感情は持たなかったそうです。重い背嚢はいのうや歩兵銃を担いでの夜間行軍では、歩きながら眠っていたとのこと。歩きながら眠る。そのようなことができるのも人間の不思議な能力だと思います。

人柄からか、上官の覚えもよかったようです。終戦時の最終階級は陸軍伍長でした。曾祖父の話によると彼は、国民政府の捕虜になって本当によかったと言っていました。とにかく待遇がよかった。

終戦から約半年後に日本に帰ってきましたが、曾祖母は別人のように太った彼を見て当人とは信じられなかったと言っていました。しかし、右肩には大きなこぶが盛り上がっていました。さぞや、重いものを担がされての軍隊生活だったのでしょう。もう少し北の方でソ連の捕虜になっていたら、過酷なシベリア送りとなって命はなかったかもしれません。

若いころの祖父は左翼思想にかぶれていて、よく曾祖父と衝突したとのこと。シナ出兵を日本の侵略と決めつけ曾祖父の考えを全く受け付けず、曾祖父に悔し紛れに『黙れ!』と一喝されたことをのちにとても悔やんでいました。今では堂々のナショナリストです。

祖父は剛毅な気質を曾祖父から受け継ぎました。そして、祖父の孫として私が出生しました。祖父はまだ矍鑠かくしゃくとして日本で存命しています。しかし名を明かすことはできません。私が身内のことを話すのはここまでです。これ以上の詮索はいかに笹野さんといえどもお答えすることはできません。

そして私は曾祖父と縁が深かった中国で映画出演となりました。『好漢』です。三国志の呂布の物語ですが、何とも痛快な撮影でした。中国の映画スタッフは皆私の同志といった感じでとにかく、すべてが円滑にすすんだ撮影でした。