ごめんね

思い出す度に小さなとげが疼くような記憶がある。製造業の経理課で働いていた頃だった。営業部の林君が

「お母さん、お金ちょうだい」

などとおどけた様子で、出金伝票を持ってやってきた。こちらもつい気を許して

「奥様、お元気?」

などと言いながらお金を渡したのである。彼は急に表情を強張らせ

「あっ、はい……」

と返事を濁して戻っていった。彼を見送って、若い女性の同僚がさらっと言った。

「あの二人、離婚したんですよ」

ドキッとした。しまった! 結婚生活が続いている人のささやかな、本人も気がつかないほどの優越感と、その事実を知らなかった私に対する、冷たい氷のようなものを含んだ言葉だった。

彼の奥様の綾子さんは同じ営業部所属で、経理に来る度に二言三言おしゃべりをしていく、楽しい人だった。私は毎年末、青山円形劇場に「ア・ラ・カルト」という芝居を見に行っていた。笑える話でよくできた芝居だと思う。林夫妻がそこで楽しげに、おしゃべりしている姿を見かけたことがあった。綾子さんが次に経理に来たとき「面白かったね」と話した覚えがある。彼女はそれから一、二年して退職したのだった。

そうだったのか……。彼女も彼も悩んだ挙句、そういう結論になったのだろう。気のいい彼を傷つけてしまった。自分の鈍感さが悔しかった。

私だって離婚した当初「ご主人、お元気?」などと言われて、返事に詰まったことがあったのに。一番気遣ってあげられたはずなのに、知らなかったなんて。

口から出てしまった言葉はもう消せない。ごめんね。あのときの林君を思い出して、二度とドジはしないようにと思うけれど、時々気がつかないうちに、失礼なことをしてしまっているのではないかと、不安になることもある。