八月〜十月
自分のことを四国犬だと言う桃太郎という青年と会ってから二ヶ月半が過ぎた。会った晩から二週間くらいはそわそわしていたが、次第に彼のことは頭から離れていった。
その主な原因は、仕事に慣れるのに必死だったからだ。客観的にみて、労働面では恵まれた職場である。だいたいの日は午後八時には会社を出られる。休日出勤も今のところはない。それでも気疲れは多々あって上司のペースに合わせるのは大変だった。たとえばコミュニケーションの取り方だ。
会議などで何を言うべきか分からず黙っていると「どんどん自分の意見を言わないとダメだ」と注意される。そうかと思えば、頑張って意見を述べたら述べたで「よく考えてから話せ。不用意なことを言うな」と発言を咎められることも多い。一応自分なりに考えたんですけど……。
まるで「空気を読むな」と「空気を読め」とを同時に言われているような感覚だ。「無茶苦茶だ」と思っていたが、すごいことにこの無理難題をそつなくこなしている同期、すなわち新入社員もいる。俺は人並みにはコミュニケーション力があると思っていたが、もしかしたら自惚れだったのかも知れない。
加えて仕事自体についても「これなんのためにやっているのだろう」と疑問を抱いてばかりだった。学生時代、アルバイトで家庭教師やカフェの接客などをしていた時は、自分のアイディアや工夫、あるいは頑張りが接している生徒やお客さんの反応にあらわれた。反応が良かった時の手応えが、今思えばやりがいになっていた。
でも今の仕事は、得られる反応といえば上司の顔色と意見だけ。自分のやったことが社会に、あるいは人にどう影響しているのかまったく分からない。だから張り合いがなく、やる気が出ない。上司とのコミュニケーションの難しさと相まって「俺はこの仕事に向いてないかも」と思うことが多かった。
そういう思いが態度に出てしまっているのだろう。上司や先輩からの当たりが、だんだんきつくなってきている気がする。しかし俺は歯を食いしばってでも、この会社で三年は頑張ると決めている。
そんな感じで会社にいる時は気が張っていたので、休みの日になると余計なことを一切考えたくなくなっていた。桃太郎と会った夜に一瞬芽生えかけた冒険心は、雲散霧消してしまっていた。