『こまち』
鷹原八汐は会いたい一心だから、何とか誘いの口実を拵える。あなたは僕の複雑には興味がないよね、聴く暇もないよね。メールの返信。八汐くんは無失点のエースです。八汐くんが今日も機嫌よく働いていますように。はぐらかさないで。姉さん風に吹かれに行く、と行きながらメールして、玄関に立っている。
「上がっていい?」
「どうして?」
「無作法して嫌われたらって」
「今更」
「お行儀良過ぎると打ち解けてもらえなくて仕事にてこずることが多い」
「……あなたは……陽溜まりみたいな人だから……」
「陽溜まりがいいのか、好きなのか、そこが陽溜まりなのか……」
「淳さんは逃げ腰で。でも僕が意見を言うと年長のプライドが傷つくんだ。言わないから追い返さないで」
淳は優しい物腰でラブチェアに座る。
「僕、此間ここでいっしょにいた時ほど幸福なことはなかった……僕の複雑を語る全てだ」
「……わたしによれば、一番騙されやすくて騙しやすいのは自分なの。騙されたくて騙したくて待ってない?」
「……臆病なだけなの?」
「二人とも勘違いだったり……」
「……そりゃ……生涯勘違いもあるだろう……」
背筋を伸ばして
「拝聴するわ」
と言うから、躰を凭せて
「こうして一生二人だけで居られたら、それだけで天国だ」
「同感」
唐突に
「保健所の裏口で話していたプリウスの男、誰?」
「まあ……奥さんの病気の勉強に来て、最新情報貰って保険の利かない新薬があるのがわかってどうしようかと……わたしの仕事は守秘義務があるの。わたしが受け持っている人の家族。忘れてね」
大人なら悲惨とか逆境は人に語らないだろう。理解されたくて語るのは未熟な証拠だ。この人に聴いてもらったら、もう二度と語ることなく、俺は大人になれるだろうか。