『八汐の海』
鉢に酒井抱一の絵のような朝顔が咲く。室町の父と重信さんから恒例のバースデイ・プレゼント。白い羊の大きいぬいぐるみ。去年はノーマン・ロックウェルの絵本だった。子供扱い。疎遠になっても。今年はいじけもせずにいる自分を、おばさんになったと今更ながら思う。なかなか吹っ切れなかったのに。ありがとう、お母さんの年に近づいた、とメールする。
話の流れと季節の流れで、八汐と海に行こうと思いついた。
「太洋くんを誘って」
「え、船? 泳ぐの? 行かないよ。プールでしか泳げない」
驚いた。海水浴したことがない子が日本にいる?
「季節限定。すぐシーズンオフになる」
行こう行こうとせがむと
「二人だけなら」
「太洋くんがいっしょがいい」
「どうして邪魔者を連れていくのさ」
「仲良くなりたい」
砂浜のビキニの淳さんをそっと想像する。二人だけ。じゃあこの家でいいってことになる。人に自慢したい気もあるが、恋人を紹介するって柄じゃ…… そうか、太洋は手頃かも。あいつ、遊んでやれる。舞い戻ってからは自分の落伍感に感かまけて兄弟で遊ぶなんて考えたことなかった。
太洋は、土曜日出かけようと仏頂面で誘われて魂消てしまった。一体どうしたんだ?
「あの人が、弟もいっしょなら行くと言うんだ」
「どの人だか、いやだよ。女も海も」
「電車もな……」
人間恐怖症は治らない。
「あの、俺のさ……好きな人、息苦しくない。親父の車借りて。俺のために付き合えよ。黙って海見てりゃいいから」
「太洋と海に行く。土曜日、車貸して」
親父も驚いただろうがそこは狸だから、じろりと息子の顔を視て
「どこだって?」
「近場。日帰りだから……此間の人と……」
へえという顔になる。女を乗せてドライブするのにライトバンは興ざめだわなと、もぐもぐ御託垂れて、ぶつけるなよ。普通の親子ならこういうやり取りを日常茶飯にするのだろうか。あの人の、その、裸視るし、俺のアパートは遠いのに工房は近いから、太洋の奴が、ひょっとすると親父まで、『こまち』に気安く出入りするようになっちゃ大ごとだ。知られないようにしなくちゃ。太洋に親父の車を出させて、どこで俺たちを拾わせようか。
「淳さん、悪いけどバス停まで出てくれる?」
「え、凄くたくさん荷物がある」
前日寄って、本当にたくさんの荷物を工房に運んで、親父のシビックに乗せるように太洋に言いつけておく。
早朝、駅前に太洋がシビックを運転してくる。俺たちは並んで待っている。一晩いっしょだったと誤解してくれないかなあ。
「太洋くん、誘ったのはわたし。来てくれて嬉しい」
太洋の奴、端から敵わない。跡形もなく緊張が解ける。紅茶の角砂糖のように。まだたくさんな手荷物を積み込んで
「俺が運転? じゃあ淳さんが助手席だ」
「そんなわけないだろ。僕らは後ろ」
「兄ちゃんには飽きているからね。俺が運転するなら淳さんは前。兄ちゃんが運転するなら俺たちが後ろ」