年子が生まれた
一九六五年三月 長女朗子、一九六六年五月 長男晋平 誕生
朗子は小さい時から少し変わっていた。
三歳ぐらいのころ、社宅の隣家の玄関をあけて"おばちゃんシャムネコに上げる魚の骨頂戴"と言っているのが聞こえた。社宅中を回ったらしい。うろうろしていた野良猫に与えるつもりだった。
また、ある日曜日の朝、彼女が三軒隣りの社宅の玄関から黙って上がり込み、みんなが寝ている枕元に立っていたのでびっくりしたとか、またある時は、ある課長さんの社宅に黙って上がり込み、押入れからそこの娘さんの玩具を取り出してしばらく遊んだあと押入れに戻して帰ったとか、ほかにもいろいろ奇行があって晴子は謝るのが大変だったそうだ。
隣家にはピアノがあり娘さんがピアノを弾く音が壁越しに聞こえていた。朗子はその家に黙って上がり込んで娘さんのピアノのレッスンを見ていたことがわかった。それがきっかけで我が家も分割払いでピアノを買い、朗子がピアノ教室に通い始めた。
晋平はのんびり大きく育ち、身長が姉と同じくらいになっていて、やがて姉より大きくなった。だが、いつも姉につきまとっていた。
西洋化成品退職を決意
そうこうするうちに開発研究に関する指示など通常の業務連絡が本社からほとんど入らなくなっていた。
政裕はことあるごとにレポートは提出していた。本社の技術課長とも電話連絡はしていたが開発関連の動きについては口を閉ざしていた。
ある日、霧谷社長(元専務)が工場に部下数人と視察に出向くとの連絡が工場長にあり、その時刻に課長以上が会議室に集められた。会社の経営上のことで何かの通達があるのではという予感がした。
しかし実際には社長の話では単なる現状視察が目的で歯切れの悪い曖昧模糊の印象を受けた。課長連中からもいろいろな質問が出されたが明快な答えは出なかった。
政裕も商品開発の今後の方針について質問したが同じくあいまいな返事だった。おそらく、伝達すべき案件の公表が急遽中止されたのではないか。そうでないと工場訪問の意味がない。何の回答も得られずその日は終わった。
その後、生産部門の連中と会社の状況について議論することがあったが、生産部門は平常通り動いているので気をもむことはない。
政裕は課の研究スタッフに課題を与えるべきテーマを切らして、個人的な興味で調査や実験でその日を過ごしている毎日になっていた。
政裕は自信喪失の心理状態で動揺していた。工場長にはこの件で話したことはあるが、そのうち本社の方針が示され、事態は変わるだろうという返事だった。その状態が数週間続いて、会社を辞めるべきかを考えるようになった。
辞めるほかに選択肢はないのか?