妻、晴子との出会いと結婚
時は学生時代にさかのぼるが、三学年の夏休みに政裕は指導教官の勧めで、西洋化成品福岡工場に学科の実習の単位を取るため戸畑から通うことになった。暑さの中、片道一時間かかる通勤はきつかったが工場の現場実習は面白かった。
二週間の実習が無事終わった日、その工場に勤めている大学の先輩にその町の料亭でご馳走になった。その料亭安川の長女と後年結婚することになったのだが、その時そこで会ったわけではない。
初めて会ったのはその七年後、政裕が吉川科学院に在勤中、本郷の弥生寮に政裕を訪ねて来た時だった。
料亭安川は西洋化成品の社用に使われ、本社や埼玉工場からの出張の定宿になっていて、古くから知られていた。政裕は彼女の存在を知っていたが座敷に顔を出したことはなかった。いわば箱入りだった。
ある日帰宅すると彼女が別室で政裕の帰りを待っていた。彼女はある航空会社の入社試験のために九州から上京して来たといった。
せっかく東京に来たのだからその辺を案内することにした。弥生寮を出て、不忍の池から上野まで歩いて行った。鈴本で落語を見て、それから釜めしが食べたいというので釜めしを食べた。はっきりものを言う人だなと思った。
その時の礼状を受け取って就活が失敗だったとわかった。残念でしたというほかない。その手紙で彼女の名前が安川晴子とわかった。
その後、博多帝国ホテルに職を見つけて通勤していたが、一年ほど経って突然喀血した。結核に侵されていたのだ。九州大学の大学病院に入院。食っては寝るの毎日で丸々と太っていった。
当時は結核に効く抗生物質の開発途上で新薬のマイシンだ、パスだと次々と発表され、そのお陰で助かったのは幸運だった。もう少し早く結核にかかっていたら彼女は今この世にいなかったかもしれない。レントゲンフイルムにあった影が消え失せたという。
一年で退院。ほかの入院患者はみんなびっくりしたそうだ。運がよかったというわけだ。
その後、福岡に私用、社用で来ることもあって時たま会う機会があり、二年後の正月、晴子の実家を訪れ、両親の承諾を得て婚約が成立した。
その形式的媒酌人を西洋化成品に勤めておられた大学の先輩にお願いした。そのあと二人で彼女が大学時代に住んでいた長崎に旅行、母校の活水女子短期大学や、大浦天主堂や原爆で破壊された浦上天主堂なども訪れ、彼女が世話になっていた下宿のおばさんにも会った。
一九六三年五月に結婚した。式場は母校の学生会館に決め電話で予約した。式には兄家族と福岡の親族たち、宅弥叔父はその前年父と同じ肝臓がんで亡くなっていたので参列してもらえなかったのが残念だった。
同級生の藤山君も来てくれた。花嫁のほうは両親、兄弟姉妹、友達など大勢、助教授の長池先生にもご参列頂いた。媒酌人は吉川教授にお願いした。予算の関係で質素な結婚式だった。
新婚旅行には戸畑駅で見送りを受け、鹿児島に向かった。鹿児島から埼玉に帰るのは長旅だったが、途中、墓参して両親に結婚の報告をするために少年時代に過ごした故郷の丹波に寄り道することにした。
福知山線の柏原からタクシーで墓地に直行した。墓地は政裕が住んでいたころと同じたたずまいだった。当時は盆正月春秋、山からしきびを取ってきて花生けに入れ、草取り、掃除などしていた。
近くのお寺には法事や葬式に祖父母の代理で列席し本堂の大広間の板張りに正座して長々と読まれるお経を聞いていたことなど思い出していた。