実は敬一さんには、心房細動という不整脈があった。彼自身は脈が飛ぶのを感じていたものの、それ以外の症状をあまり自覚していなかった。そのため、月に一度、高尿酸血症の治療薬をもらいに行っていたにもかかわらず、敬一さんの心房細動は経過観察という形で放置されていた。かかりつけの医師は精密検査を勧めてくれたが、敬一さんは検査や治療をはっきりと拒んだ。

そして彼の心房細動は、その放置された期間に、最もよくない経過をたどっていた。心房細動は高齢者に多い不整脈である。

心臓には、左右の心房と心室の四つの部屋がある。上の部屋である心房が微弱な興奮を起こし、その刺激が不定期に心室に伝わるために脈が乱れる。脈は乱れるのであるが、頻脈発作、つまり、動悸を起こすような変化がなければ、患者本人は不整脈に気づいても放っておくことが多い。

症状がなければ放っておいてもいいような気もするが、実はそうはいかない心配な変化が起こっている場合もあるのだ。その変化とは、左心房内(左房内)に血栓ができてしまうことだ。心房の収縮が十分に行われないために、左房内の血液がスムーズに左心室に送られなくなる。

そのため、そこでは血液がうっ滞して、場合によっては、一部が溜まってしまうことだってある。血液が滞ってしまうことによって、左房内には最悪の場合、血栓ができてしまうのだ。さらに運が悪いと、左房内の血栓は左心室に送り込まれる。そして、心室から上大動脈を経由して脳内の動脈を流れることもありうる。それらの血栓によって動脈の閉塞が引き起こされると、脳塞栓と呼ばれる重大な脳梗塞を発症してしまう。

脳塞栓は、比較的大きな血栓が、脳内の比較的太目の動脈(例えば中大脳動脈)を閉塞させることで、非常に悲劇的な後遺症をもたらすことが多い。半身麻痺(片麻痺)や、持続する意識障害、また食事を噛んで飲み込む機能、いわゆる咀嚼嚥下機能が障害されることも稀ではない。

こうして、本当に大変なケースになるとほとんど寝たきりの植物状態に陥ることもある厄介な病気だ。

敬一さんの脳塞栓は左の中大脳動脈の起枝部、つまり付け根のところが閉塞して発症した。それによって大脳の左半球の3分の1が脳梗塞を起こしていた。

広範囲にわたり脳の実質が障害されたために、彼は意識障害を起こしており、倒れてから10日目になっても意思の疎通ができなかった。もちろん右半身は麻痺を起こしているものと思われた。和子さんが右手を握っても全く反応がないのだ。声かけをしてピクリともしない。

そんな夫の姿を見て和子さんは大いにショックを受け、入院してしばらくのあいだ、事態をあまり正確に把握できていなかった。この現実に正対することができないまま、日々病院のスタッフに言われたことをこなすのが精一杯の状態であった。