日常に恋物語セーヌ晩夏

ホテルを出てレストランの前まで来ると、少し気持ちが落ち着いたようだ。一昨日、このお店に来ていてよかったと胸をなでおろしながら店のドアを開ける。午後十時とあって、店内は空いていた。席に案内されて座ると、しばらくして若いスタッフが涼しい笑顔で頼んでもいない食前酒を私の目の前に置く。

「あちらからのサービスです。どうぞ」

「あちらって、誰?」

店内には窓際で熱心に本を読んでいるフランス人青年がひとりと、食事に集中している男女一組がいるだけだ。きょとんとする私に、隠れていたように先日のムッシュがスタッフの後ろから笑顔で近づいてくるではないか。

こんばん(ボンソワー)()元気(サバ)?」とムッシュは私に声をかけて食前酒をすすめてくれた。私は思わず微笑んで「ありがとう(メルスィ)」を返すと、彼が手を差し出してきたので私たちは初めての握手を交わした。そして、少量の食事をとの私の頼みに、ムッシュはレストランに来てなぜ食事に消極的なのかわからない顔をしながらもラザニアを勧めてくれた。そのラザニアはとても優しい味で私の心配事をよそにするりと胃の中へ落ちていった。

「明日の晩も来てくれる?」

「来られないわ。明日の昼間なら来られるけれど」

私は明日帰国するのだ。ムッシュは少し残念そうな顔をしながら、「今夜はこれからどうするの? もう、スリープ?」腕枕の仕草をしてみせる。そして、「お店が終わったらこの界隈を案内したい。午後十一時半にまた来て」と私を誘った。

私はサン・ジェルマン・デ・プレのにぎわう夜を歩いてみたかった。現地の人に案内されないと、ここの夜の楽しさはなかなか経験できないかもしれない。街の様子は想像もできなかったが、きっと楽しいのだろうという確信は持てた。