左手、反乱する

その翌日、どうした加減か、左手の親指をなにかに強く引っかけてしまい筋を痛めてしまった。ちょっと何かに触れるだけで、左手がピリピリッとひどく痛んだ。それからが大変だった。服の着替え、洗いもの、お風呂、すべてが不便で仕方がない。

スカートを引き上げようと思うと右手だけでは十分にあげることができない。スカートどころか、ぺらぺらのパンティー一枚があげられないのだ。髪の毛も右手だけではよく洗えない。右手で洗い、左手でシャワーという連携ができない。

野菜や魚を洗うのにも不自由する。包丁は右手があれば大丈夫と高をくくっていたのに、押さえたり、支えたりする左手がないと、右手だけでは全く機能しないのだ。ほとほと困って往生した。

そして、つくづくと「左手も働いている」と思い至った。

そんな当たり前のことを、結構な年齢になるまで考えもしないで生きてきた自分がつくづく恥ずかしく、我ながらあきれ果てた。そして、また左手に向かって語りかけることにした。

「ねぇ、左手、お前がちゃんと働いていることをいままで気が付かずにいてごめんなさい。私の体はお前がいてくれて、そのお蔭でちゃんと動いていたのね。お詫びしますから、どうぞ、機嫌を直してね」

左手の機嫌はやはりすぐには直らず、しばらく痛んでいたが、そのうちいつの間にか元に戻った。

人間の体でいらないところなんてどこにもないのだと、その時つくづくと悟った。私たちの気が付かないところで、どこもかしこも、どんな小さいところも、隠れているところもみんな役割を持っていて全体を機能させている。人間の体は本当に不思議な宇宙なのだ。

考えてみれば、この途方もない、限界を知ることもできない大宇宙を創造し、統一された仕組みをもって動かしているものが──そのものを人は「神」と呼ぶのだろうと思うが──地上の小さな、小さな虫や草花にさえ生きる術を与えて下さっていることを思えば、人間の体のすべてに意味があることをとっくに感じていいはずだったのに……まったくバカな私だとしかいいようがない。健気な「左手」が私にそのことを教えてくれたのだ。