第1章 なぜ本を読むのか? 本の意味
身勝手に読書遍歴を語られても……
読書遍歴、あるいは自らの書評をひけらかすことは、読書家にとって至福のときです。それを喜んで聞く人もまた読書家です。なぜなら、明かされる内容に興味があるので、共感をもてるからです。
「へぇー、あの人はこんな本が好きなんだ、ワタシも好きなのよね」と賛同したり、「ボクはあまり好きではないかな、でも、そういう捉え方ができるなら、もう一度じっくり読んでみよう」などと向き合うことができたりするからです。楽しい時間の共有です。
ですが、読書習慣のない人にとってはチンプンカンプン、本のタイトルを知っていればまだマシな方で、ほとんどわかりません。「そういう本なのね」と思うことはあっても、共感というにはほど遠いです。
「おススメの人気本ランキング10」などと紹介されているなかで一冊も知っているものがなければ、不面目(ふめんぼく)を感じてしまい、詳細を調べようという気すら起きません。読書遍歴を語る人というのは、間違いなく教養人です。必ず、哲学や古典に関する本を数冊放り込んで紹介してきます。
偏見かもしれませんが、読まない人間からすると、「カント」とか、「ニーチェ」とか、「ゲーテ」とかの名前を出された時点でアウトです。「頭が良かったからどんな本も読めたし、勉強ばかりしていたのでしょう」という気持ちになります。そんな人の薦める図書は、その人の知見を超えてきた上作(じょうさく)ですから、概して難解です。難解でないならトリッキーというか、ひねりが利いているというか、とにかく慧眼(けいがん)に値する本です。初心者には向きません。
ですから、誠に勝手を言って申し訳ないですが、読み手のことを考えずに、本のタイトルとその書評を無自覚に語るような読書遍歴の紹介の仕方では、読書嫌いの人には届きません。知識人ぶって格好を付けたがる俗物趣味の読書ではないかと逆に勘ぐられ、そのインテリ性が気に食わないという結論に達するのがオチです。
だとしたら、現在も本の苦手な人間が、「この本なら読めた」というような紹介をした方がいいかもしれません。とにかく、読書家で教養人の薦める読み物に対しては、その本の入門書みたいな本も併せて紹介してもらいたい、その障壁の高さを下げていただきたい―
M・J・アドラーとC・V・ドーレンの『本を読む本』を読むために、“『本を読む本』を読む本”があれば、それから読みたいですし、ショーペンハウアーの『読書について』を読むために、“『読書について』について”の本があればありがたいです。谷沢永一の“『古典の読み方』の読み方”や、松下幸之助の“『道をひらく』をひらく”や、……以下永遠と続く。