また、鳩が死んでいる

「あの男、逃げて行きましたな」

不意に声をかけられ振り向くと、ステッキを突いた痩せた老人が立っていた。

「あ、はい……」

「すみませんが」

老人はリュックサックを置いたベンチを指した。

「そちらへちょっと、かけさせていただいてよろしいでしょうか」

「あ、これは気がつきませんで」

私は急いでリュックサックを片付けた。

「どうぞおかけ下さい」

「有難うございます」

老人はゆっくりと歩いてベンチに腰をおろした。痩せて枯木のようになっていて、極端に顔色が悪い。白い透き通るような、しかも生気の無い肌をしている。

ガンだな。

すぐにわかった。鳩が老人の足元に下りてきた。肌の色のことを別にして見れば、上品な細面の老人で、濃いグリーンのベレー帽をかぶり、ダークグレーの厚地のコート、白のマフラー、紺色のスラックスに黒いスニーカーを履いている。

また、鳩が二羽舞い下りてきた。

「大した距離を歩いたわけではないのですが、意気地が無くなってしまいました」

腰かけた前にステッキを立て、その上に両手を重ねて、微笑んだ。鳩がまた増えた。

「貴方に何か言っていた男ですが、名前を大村省二といいます。変な男で、ガンは伝染すると信じていまして、私が近付くとああやって逃げだすのです」

やはりこの老人はガンをわずらっている。

「助かりました。私では処理できない要求をされまして」

「相当、悪態をつかれましたか?」

「はい、まァ……」

「さぞ不愉快だったでしょう。相手かまわず悪態をつくのです。まるでそれが生きがいのような」

大変な男に眼をつけられてしまったのか。ま、この仕事をやっている以上仕方がない。

「申し遅れました。私、小笠原と申します」

「こちらこそご挨拶が遅れました。私は野原と申します」

私は首から下げた身分証を示した。

「本当に有難うございました。私の立場では強く言い返すわけには参りませんので」

鳩が急に飛び去っていった。

「あの男は」

小笠原老人は公団住宅の方を見やって言った。

「長いこと病気の母親の面倒をみておりまして、それで結婚もせず、勤め先も辞めて生活保護を受けて暮しておりました。昨年の夏にその母親が亡くなって、今は一人暮しをしています。毎日、ああやって周囲に当り散らしてすごしています」

「小笠原さんは、大村氏とお知り合いなのですか?」

「そうですね。知り合いというか、口をきいたことは無いのです。でも先程お話ししたようなことは知っています」