福笑い
まずは沼に侵食されていないフローリングの床に椅子を一脚移動し、夫を椅子の傍までつれていき、手や足の裏の納豆を拭い、パジャマを脱がせ、納豆をよく拭き取ったスリッパを履かせて椅子に座らせる。替えのパジャマを持ってきて夫に着せる。それからようやく納豆の沼を全部きれいに拭き取る。
これからは納豆をかきまぜる回数に制限をもうけようと固く心に決める。まぜすぎるとこれほど納豆が猛威をふるうものだとは知らなかった。食卓の上も、フローリングの床も、きれいに拭いた。絨毯も対処が早かったので、幸いシミにならずにすんだ。でももう一度あとでぬれ雑巾で叩いておこう。
椅子に座らせた夫は呆けたように大人しくしている。それでいい、そのままでいて。ようやく夫の口と目と眉と鼻と耳を水洗いしてフキンで拭き、福笑いのように夫の顔に載せていく。
せっかく新たに載せるのだから、少しマシになる配列を編み出せないものか、工夫してみるが、目覚ましく改善できそうにもないとわかると張り合いもなく、無造作に両方の眉と目と耳を置き、鼻を置き、最後に口を置いた途端、「朝ごはんまだ?」と口が動いた。全く私は閉口してしまった。
夫は自分がなにを仕出かしたか覚えていないらしい。そこで一部始終を語って聞かせたが、「君の妄想癖がそこまでひどくなっていたとは知らなかった。早めに病院に行った方がいいよ」と却ってこちらの心配をする。いらぬお世話というものだ。しかも先ほどのが最後の納豆だったことを思い出した。
まあいい、マンションの一階にはコンビニが入っているのだから、下まで行けばすむことだ。今度は無事に朝食にありつけるだろうか。そう思いながらエレベーターに乗って一階へと向かう。老人の一日は長い。