第3章 マネジメントから見た司教団の誤り

1.ピーター・F・ドラッカー 『マネジメント』

私がドラッカーの『マネジメント』を読了したのは1974(昭和49)年4月である。私は32歳だった。本書は今も読み継がれている名著であるが、私も、社会人として、また一人の生活者として、大きな影響を受けた。ものを考える筋道をこの本によって教えられた。

『MANAGEMENT』は副題が、“Tasks, Responsibilities, Practices” とある。「課題」「責任」「実践」と訳されている。

本というものは読む者それぞれの理解がある。加えて私が読んでからすでに45年になる。中身の詳細な記憶はない。私に残っている理解の骨組みは、「実践」には「責任」が伴い(「責務」の方がふさわしいかもしれない)、さらにその前に「課題」すなわち「実現しようとする目的の把握」が必要だということである。そのことを端的に教えて下さったのが、カトリック横浜教区長・濱尾文郎司教(後に枢機卿)だった。

「私たちは必ず目的を持って、人間としての行動を起こします。行為として時間的に一番最後にくる目的を、一番最初に頭の中に持ちます。たとえば、今日七時にここへ来て、私の話を聞こうということを、家をお出になる時、あるいは会社が退けてから、最初に考えていらっしゃいます。そのためには目白の駅で山手線を降りて、あの改札口を出て、バスに乗って、という行為がだんだんつながってきます。

そして、実現されるのは一番最後になります。哲学的には、合目的性と言い、そのときに人間としての責任がある訳です。しかし、目的なしに行為した時、それは人間的な行為ではありません。」(『生きる意味を聞く』中央出版社・昭和49年7月20日刊、37ページ)

P・F・ドラッカーと濱尾司教の言葉の相乗によって私は、行動はどのように計画すべきか、理解したと思う。濱尾司教は同書で次のようにも語っている。

「たとえば、大阪へ行くためには新幹線に乗ってもいいし、飛行機で飛んでもいいし、自動車でドライブしても、歩いてでも、自転車でも、あるいは船で行ってもいいでしょう。いろいろな方法がありますが、まず大阪に用がある。ある人に会いたい。しかし時間の条件がある。ふところ具合もある。前後の自分の用事もあって、五つくらいの可能性の中から一つを選ぶわけです。

そのようにして、目的に達する実際の手段を選んで大阪へ行き、用を果たすのは最後にきます。時間的には最後にきますが、目的は最初から持っています。」(同書38ページ)

ドラッカーも濱尾司教も、「課題(目的)」があって、「実践(行動)」がある、と言っている。これが以降、私の考え方の基本になった。

2015年10月に『ドラッカーと私』という本が翻訳出版された(NTT出版2015年10月30日初版第1刷)。原著者はボブ・ビュフォードというテキサスの実業家である。ビュフォード氏は「人生の“ハーフタイム”」において、大成功した自身所有のCATV会社を売却した。

「後半は自らの持てる資源──時間、冨、才能など――を信仰に傾斜配分すべきと思った。」(同書81ページ)

「神がこの世を変える戦略の一環として教会を生み出したのだとすれば、どうして事業経営上のプロとして有効な手法を採用してならない理由があろうか。あらゆる理念が神に由来するものだとすれば――もちろん私はそう考えるわけだけれど――、戦略やマネジメント、顧客調査、コミュニケーションなどビジネスになくてはならない必須知識を、福音の世界に呼び込んでいけない理由があるのか。」(同書77ページ)

ビュフォード氏は牧師ではない。自身が直接の宣教師でもない。氏が行ったのは宣教者たちを支援することである。その過程でドラッカーから多くの助言を得ている。

ビュフォード氏がしたのと同じことは、日本のカトリック教会ではできないだろう。アメリカでもカトリックの組織では、同じ方法はとれないと思う。しかし思考経路は、私が常々考えていることである。要は応用なのだ。

私はいつも、日本の司教様方がドラッカーの『マネジメント』を読めばよいのにと思っていた。大成功した企業家ビュフォード氏がそれを実践したので、我が意を得た、と同時に驚いたのである。私は「宣教」も「商品の売りこみ」も原理は同じだと思っている。

絶対必要条件は、「信頼される」ことである。警戒や不信感を持たれたら、その段階で失敗である。