恥ずかしいことですが、私自身は、「学童期と青年期はもちろん、高等教育を受けて、さらには社会人になるくらいまでほとんど読書をせず、医者として成長するうちに、ようやく医療系のエッセイを読むようになった。医学論文を書くことで、もう少し読書に関心が向くようになった。読むことと書くこととの好循環が生まれ、いまやっと本読みの何たるかがわかりかけてきた」という極めてマイペースに歩んできた経緯を踏まえると、読書は、必要に迫られることで自然に身に付くという感覚でした。
読書のスキル向上は、あくまで結果でした。
いまの時代、ネットを中心に、情報を集めるためのツールはいくらでもあります。書籍に頼る時代はとっくに終焉(しゅうえん)を迎え、読書が趣味の定番でなくなりました。
そのなかにおいて相変わらず強調される読書の効用は、専門家(と編集者)の体系的記述に基づく一定の信憑(しんぴょう)性と、能動的な作業から発せられる知識の固定性とです。一口に言えば、他の媒体よりは多少正しい教養が身に付きやすいということです。
一方で、読書には面倒くささもあります。それは、メリットであるがゆえにかえって仇(あだ)となってしまう部分です。読んでいるかどうかが知性の判断材料にされます。
数行前に、いみじくも自分で「恥ずかしいことですが、私自身は、……」と表記しました。読書好きは感心され、読書嫌いは見下される傾向にあり、これこれの本を読んでいるか否かで、その人の見識の深さ(あるいは、浅さ)が推し量られてしまいます。
『鬼滅の刃無限列車編』(日本国内における最高映画興行収入)、あるいは『世界に一つだけの花』(平成で最も売れた楽曲)を知らなくとも特別なんともなりませんが、『吾輩は猫である』や『走れメロス』のストーリーを知らないと、ちょっとしたやましさを覚えます。
読書には、しない後ろめたさがあるのです。ハードルが高いうえに、取り組んでいたとしても、「理解できなかったらどうしよう」とか、「途中で投げ出してしまわないだろうか」とか、そういうことを懸念しながら読んでいます。遅かれ早かれ何らかのインプットが必要になる状況であるにもかかわらず、なかなかページをめくれないという人もいます。
実にたくさんの人が読書で悩んでいるようで、このことにも驚きでした。読書には踏み絵のような役割が存在していたのです。読みたいときに、読みたいように、読みたいだけ読んできた自分にとっては、これまた複雑な気持ちでした。