この一年は時間と膨大な経費の浪費だったが一年で結論を出せたことは幸運だったのかもしれない。政裕にとって貴重な失敗の経験となった。霧谷専務にとっては太陽電池に応用して各家庭の屋根の上で発電するという夢が叶えられず残念だったことだろう。
後々、太陽電池が大規模に世界中に行き渡るようになったことを思えば、彼は先見の明があったことになり、政裕はこのプロジェクトを確実なプロセスを模索してさらに推し進めるべきだったのかもしれない。
このプロジェクト終了の直後、本社開発部の杉浦技術課長が関西電力黒部川第四発電所の見学旅行を計画、それに参加するよう誘われた。
本社の若いスタッフ数名と東京から国鉄を乗り継ぎ、大糸線の信濃大町駅で関西電力差し向けの大型ジープの出迎えを受けた。
ここから工事用に建設された飛騨山脈を横切る五キロメートルほどのトンネルに入った。この掘削工事は完成不可能かと言われた難工事との説明を受けた。遂道道路を抜けるとそこにアーチ形の通称黒四ダムの堤防があった。完成したばかりだった。
百七十名ほどの殉職者の名前が石碑に刻まれていた。いかに難工事だったかを窺い知った。西洋化成品はトンネル掘削用のダイナマイトと発破用火工品を供給していた関係でこの見学が可能になったと聞いた。
ダム湖は水位がまだ低かったが放水は始まっていた。一般には公開されていなかった。数名の現場要員にダムの全容の説明を受けた。そして黒部峡谷を下るルートの説明を受け案内者と別れた。
ダムからの放水は黒部川になって黒部峡谷を下っていた。その谷の側壁に沿って大きなトンネルが掘られて、大口径の放水管が何本か並列で谷底に向かって伸びていた。
そのトンネルに入ると側壁に沿ってコンクリートの階段があった。暗かったが随所にあった電灯の灯りを頼りに皆で下っていった。四十五度の傾斜といわれた。かなりの標高差があって数千段の階段だった。行く先ははるか下のほうに霞んで消えていたほどの高さだった。
ようやく下端に着いた時、足ががくがくしてその場に座り込んだ。
トンネルを出て、工事用のトロッコに乗り黒部峡谷を下っていった。途中灼熱トンネルを通過し、長い道のりを経て欅平という民家のある駅にたどり着いた。
黒部川第四発電所の存在がいかに大きなものかを知ることができたこと、一般には立ち入ることができない発電所の内部を見せてもらったことは貴重な経験になった。
六十有余年前、この発電所の建設を決断した当時の関西電力幹部の度量の大きさを感じ、日本の土木建設の底力を見た気がしたので特記することにした。