専門教育の縮小と教養教育の欠如

専門科目も現在社会で話題や流行になって、すぐに企業に役に立つと思われる内容に学生の人気があるため、その背景にある科学的・数学的思考の訓練まで及ばないことが多い。

例えば、機械系では材料力学、熱力学、流体力学をじっくり必修として教える学科が少なくなった。なぜなら、学生が安易な学科、楽勝な科目を選択しがちで、教員もその方が楽だからだ。

専門理工系科目以外に、教養の研鑽を積むことが世界で活躍する日本人には必須である。

しかし、教養学部のある大学を除いて、教養は専門科目の一分野に成り下がっており、かつての法学・政治・経済・哲学・歴史・文学・芸術など教養教育は、夢のまた夢となっている。

自己主張しなくなった日本人

今の日本社会では「協調性」を第一義に置いている。

それを単純化すると「個性尊重の否定」を意味している。

「社会に流されない個性が、社会に貢献する」(世界経済フォーラム日本代表:江田麻季子)のである。

日本では問題解決のために多数を集め会議をする。時間は予定を超過して議論は堂々巡りするだけ。リーダーは意見を集約しベストの解を見いだす能力に欠けるため、結局継続審議となる。

筆者の大学でも、教授会に200名ほど参加して、2時間後に何も結論がなく散会することがしばしばである。

あるとき、思い余って「教員の時間給は1.5万円、今日は2時間の会議で、学生の授業料から600万円が消え去ったのと同じ」と発言したら、ほかの教員から「仮想通貨の話をしない」と冗談でかわされてしまった。

筆者がドイツに留学していた頃、議論をして時間内に結論を出す、いや結論を出すために議論をしていた。当然、最善の答えを出す能力がある人がリーダーの条件で、その能力のない人は、会議の主催者にはならない。その背景には初等中等教育における「自立した個人の育成」がある。

つまり、自分で考え、「その思い」を皆の前で述べ、議論し、より正しい解に近づいて行くように、小学校の頃から育成されている。知識より個人の思い・独立性・自立性がその教育で優先される。ただし、慣れない日本人は、その議論のしつこさに辟易することもある。

現在でも、政治家・官僚は政策決定の責任を特定されないように「○〇○……と聞き及んでいます」と主語のない答弁を滔々と続け、公文書といえども、議事録の存在を曖昧にする方向になっている。