しかし、エンジニアにはかくのごとき評論家的発言が最も嫌われるのである。
筆者が学生に課題を出して「わかりました」と回答されたとき、「教授の言うことを、とりあえず理解した」のか、「納得したので実行する」のかが判然としなかった。
多くは、「とりあえず理解した」、または「黙って頷く」姿勢で無難に当座を通り抜けようとする。
また、「君はやればできる!」とインカレッジの誘い水をかけると「私は普通でいいのです。私を買いかぶらないでください」と来る。
日本人は「普通」が好きだ。
全てのことを「普通」で通り抜ける。思いや理想を語ると、次にやっかいな第二波三波が来て、その波に飲み込まれる。それを極端に嫌う、というよりも飲み込まれることに慣れていないのである。
就職が決まった学生に「なぜトヨタを選んだの?」、英会話を学ぶ学生に「なぜ英会話を? 英語で何を伝えたいの?」との質問には、まともな答えが返って来ない。
人と違った自分独自の価値観を発信する経験が少なく、自己選択を養う目が育っていない。
学歴はともかく、自己の「思い」を語る術としての学力は、絶対につける必要がある。
再び司馬の言葉を借りれば、
「人間はなんのために生きちょるか知っちょるか! 事をなすためじゃ、人間には志というものがある。妄執と申してもよい。この妄執の味が人生の味じゃ」
と竜馬に語らせている。
「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。
ともかく若い間は、行動することだ。
めったやたらと行動しているうちに、機会というものはつかめる。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。
たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。
そもそもこうありたいと願うこと自体、それを現実にする力が潜在的に備わっている証拠。素質や能力がないことを、あまりしたいとは思わない」
と司馬は締めくくっている。