康代は二人いるホステスの一人だ。もう一人のホステスの沙耶も既に出勤していた。美紀が洗い残したコーヒーカップはきれいに片づけられていた。
店はすっかりスナック開店の準備が整えられ、あとは入り口に置かれている「スナック漁火」と書かれた看板に灯りを点すだけになっていた。昼間の喫茶店からスナックへの切り替えはこの看板に灯りを点せばいいのだった。
「ちょっとね、遅れて御免。片づけと準備有難とね。看板のスイッチお願いね」
岬で母の思い出に浸りながら流した涙の跡を覚られまいと少し俯き加減になりながら、美紀は二人にそう言って住まいにしている漁火の二階に上がった。
厚い化粧と胸の辺りが大きく開いたスナック用の衣装に着替えるためだった。
一階のスナックになっている部屋の奥には鍵の無いドアがあり、開けると台所兼食堂になっていて二階の部屋に通じる階段があり自由に出入りができた。
二人のホステスは共に地元志摩の人間で、康代は、夫はおらず食べ盛りの二人の息子を育てている。夫は時化を無視して出た漁で船がひっくり返って亡くなっていた。昼間は小さな水産会社で工員として働き、夜は漁火に出ている。
もう一人は婚期を逸した女で、昼間は康代と同じ水産会社で働き、病気の親の面倒を看ていた。
美紀は、外出などの都合で自分が店を定時に開けられないときのために二人のホステスに店の鍵を渡していた。
それは信頼の証であり、人を使うテクニックの一つだと死んだ母から教わっていた。尤も、貯金通帳など大事な物は常に持ち歩くバッグに収めていた。
美紀は髪をポニーテールに括り、若作りにしているが、四十歳を越えている。
店ではもう少し歳を若く申告したいが、地元出身の弱みで客には同級生もいて誤魔化しようが無い。
母がそうしたように年に一度の夏祭りでは、率先して世話役を引き受け地元で浮いた存在にならないように気を配っている。ホステスや客たちの相談にも気軽に乗り、ここら辺りでは少し頼りになる姉御肌の存在になっていた。
以前からの常連客たちは、近頃の美紀は先代のママに似てきたと盛んに言うようになった。
客である漁師たちの出足は早く開店早々から席は埋まり始める。
漁師たちは、ビールや日本酒より度の強い焼酎を好んで飲んだ。飲むと歌う。
商店の親爺や旅館、民宿の泊り客も連れだって飲みに来ることもあるが大半は漁師の常連客で皆顔見知りであった。
常連客たちは飲んでは歌うことを繰り返し、その間に競い合うようにホステスたちをダメと知りながら露骨な口調で盛んに口説いた。
酒でタガの外れた男のすることで母の時代から少しも変わっていない。
しかし、ホステスや美紀が本気で相手にすることは無い。
この地方の漁師たちの結婚は早くほとんどが嫁のいる身で、小さな町で不倫の噂が立てば互いに居辛くなるのは必定だからである。