懐かしい想い出に浸ったその日の午後、わたしはめまぐるしく外来診療をこなしていた。必死に診療録を残すわたしに、神妙な面持ちの看護師が声を掛けてきた。病棟患者の容態が悪化したのかもしれないと不安が過ぎる。
「どうしたんだい」
「篠原先生、他病院の先生からお電話です」
「転院搬送依頼か。それなら今日は川上先生が担当だ」
「いや、それが。篠原先生にお取り次ぎ願いたいと相手方は仰っております」
はて、どういう用件だろう。ただでさえ忙しい外来診療、余計な手間を増やさないで欲しいのだけれど。わたしは自分の感情を宥めながら、受付の固定電話に出た。
「こちら、血液内科助教の篠原です」
「ああ、篠原諫先生ですか。お忙しいところ申しわけありません。わたしです、神谷内科クリニックの神谷です」
神谷クリニックだと。はて、そんなところに患者を搬送したかな。首をかしげた後でさあっと血の気が引いた。
神谷クリニックは、九州に移り住んだ母が通院している場所じゃないか。老いさらばえた母は数年前から大腸癌を患い、見つかったときには肺や肝臓にも転移していた。
放射線と化学療法でなんとか病状が安定するに至り、わたしたち家族がほっとしたのも束の間、母は信じがたい決断を口にした。
「ひとりの生活が恋しくてね。きれいな空気の田舎で、のんびりしようと思うの」
開いた口が塞がらなかったというのは、まさにこのことだろう。母が言うには親しい知人が九州にいて、その知人の伝手を頼り、田舎の一軒家に移り住むというのだ。あまりに無謀で唐突な話に、わたしと家族は断固反対した。
もしものこともあるし、今更ひとりで過ごすこともないだろう、と。だが母は聞く耳をまったく持たず、数週間後にはそそくさと逃げるように移り住んでしまった。
おばあちゃん子だった娘の陽菜(はるな)は
「わたしも九州に行く」
と駄々をこねる始末で、わたしと多恵をほとほと困らせた。そういう経緯もあり、わたしは母に対してヘソを曲げている時期だった。
わたしは受話器をぎゅっと握りしめる。
「それで、どうされましたか」
「先生も同業者ですので、端的にお伝えします。喜美子(きみこ)さんを大学附属病院へ搬送いたしました」
「いったい、なにが」
「結論から言います。敗血症性ショックで集中的治療が必要だったからです」
敗血症。それは血液中に菌が入り込んで体中で暴れ回る状態だ。母のように免疫が低下している高齢な患者では命に関わる病気で、そこにショックという循環不全も加わっているということ。神谷先生はさらに悪い知らせを運んだ。
「容態は厳しい状況です。万が一の事態も考える必要があります」