母の認知症と妻のうつ病
その頃の私達には、認知症についての知識が全くなかった。
実際に介護する京子と、たずさわらない者との認識の隔たりはあまりにも大きく、理解してもらえないもどかしさばかりが、京子一人の中につのっていった。
家族全員がたずさわることで、母の認知症の特徴が理解できる。当時、そのことが解決方法だということに誰も気付いていなかった。
「あなたには、私の気持ちは分からない」
妻の強い怒りが、私に向けられるようになった。
その頃になると、私にも母のまだら認知症の発症が分かるまでに症状が進んできていた。しかし、母がその病名で病院に行くことはなかった。
「京子と一緒になって、この家から追い出す気か」
私は母のその一喝で、気力が萎えってしまっていた。もう、異を唱える者がいなくなり、母が動くことはなかった。
そうこうしているうちに京子の方がうつ病になった。
市内にたくさんの病院があるにもかかわらず、近所の目を避けて、わざわざ市外の心療内科に通い始めたが、「一人で抱え込まないで、夫の兄弟姉妹と分かち合ってください」と、いつも女医に同じことを言われて帰ってきた。
京子は私にそのことを訴えたが、遠い場所にいる姉、妹は無理だと言って、取り合わなかった。
結婚して近くに住んでいた私の兄に、「二家族で、交代して面倒を看る」、という提案をしてみたが、取り合ってくれなかった。
京子は一人で悶々として、和室でうつ伏せになって叫び、足をばたつかせていたが、事態が何も変わらないことに絶望して、心療内科の通院も一年半で止めた。
私にも見放された形になり、結果的に誰にも理解されない鬱屈したストレスは京子一人の中に集中して溜まった。数年で豹変した義母の態度が京子には信じがたく、大きなショックとなって胸を覆い、何かあるごとに自分を責め続けた。
この頃が夫婦としての精神的などん底で、妻から離婚を切り出されても仕方ないと私が覚悟した時期でもあった。
不思議なことに、父の死後、四年もすると、母の認知症が軽くなった。ただ、母と京子の確執は認知症の進退とは関係なく、反対に大きくなった。
痛風の病院の付き添いと、母の住む主屋へ三度の食事運びと、掃除という最低限の接し方に変更したが、妻は前よりも一層ふさぎ込んでいった。
母は介護ヘルパーの訪問を拒否していた。他人が自分の生活にかかわってくることを嫌がったからだ。母の調子のいい日を見計らって、日中の数時間でもとの思いから、私は病院に併設されたデイサービスの話を切り出したことがあった。
「自分の家があるのに、何でそんな所に行かなきゃならん。京子なら言い出しかねん。性悪女ぁー」
私達の住む別棟に向かって、声を張り上げた。それは支えてくれていた夫と愛していた息子(私)を失った叫びだった。
「頼むから分かってくれ」
「お前は嫁と私の、どちらを取る?」
「そんな問題じゃない」
「よく分かりました。母親を捨てるということですね」
母は哀れな悪態をついた。京子も母も、家族に理解してもらえないストレスで身体中が膨れ上がっていた。
昔の母はこんなんじゃなかった。京子が得意料理を多めに作って持って行ったり、母がいい料理の材料があったと言って、たくさん買ってきて持ってきたり、互いにスープのさめない距離という関係で仲良くしていた。
「優しい嫁が来た。これで思い残すことはない」と母の自慢話を人づてに聞いたこともあった。それがいつの間にこんなことになってしまったのか。
子供から手が離れて、本来なら、親に対して優しくなれる歳になっているはずなのに、いつの間にか家族の歯車に狂いが生じていた。父が亡くなった後、すでに互いの優しさが生まれる、心のゆとりをなくしていた。