プロローグ
佐藤は、韓国KDPの今までの決算書に目を通し、旅費交通費、交際費が異常に多い、原材料や、製品在庫も売上高に比して多過ぎる、仮払金(先給金)の精算が行われていないなど経理が不透明であったため、日本側が経営権を握り、経理面にメスを入れる必要を痛感していた。
貸付金も返済しないし、赤字を垂れ流しているような不良経営者で、しかも株式も僅か一〇%しか持っていないにもかかわらず、何故社長なのか佐藤の率直な疑問であった。
しかも、前社長との間でいつでも株式を引き渡す約束があったことは、まさに寝耳に水であった。
「分かりました。株式の件については、理事会前にディックの後任の山田卓社長と話し合いの機会を作ります。私案ですが、一、二年日本側に社長を譲り、理事として応援していただき、樹脂事業が上手く行き、業績が回復したら、また復帰をご検討願いたい」
と佐藤は、妥協案を出すのが精一杯だった。
しかし、李も、権も押し黙ったまま、立ち上がった。
初めての対決
平成十一年五月十九日東京のA霊場での倉本和雄前社長の社葬が葬儀委員長ディック・ケミカル株式会社山田卓社長の下に厳かに執り行われた。
佐藤顧問もモーニング姿でディックの役員に混じって、参列者の方々に頭を下げ謝意を表していた。
参列者はひきも切らず、故人の交流の深さを物語るように、中根前首相をはじめ、政界や、財界の大物たちも弔問に訪れた。韓国ディック・ペイント株式会社の李社長も、夫人同伴で参列していた。
社葬の翌日、ディック本社に顔を出してから、築地の住居兼共立商事事務所に戻った李は、葬儀の後、先に韓国に妻を帰していたので、久し振りに心置きなく事務員の小田良恵を抱いた。
そのあと、顧問の佐藤がDP社長に就任したことを知った李社長は、お祝いを兼ねて挨拶をしたいと申し入れ、七月二十三日に面会した。