「何か言っていたような気もしますし、うーん、それ以外は、思い出せないなあ……」
からだの大きい方の署員が言った。
「それでは、何か思い出していただいたら、僕の所に電話をください」
と言いながら達郎は、名刺を出そうとした。が、名刺をつかもうとした瞬間、ためらった。そして、再び名刺入れを閉じると内ポケットにしまい、代わりに手帳を取り出した。中にある白紙のページに電話番号と名字を記入して、切り取って渡した。
名刺を渡したら、達郎が、シンノスケでないことがわかってしまう。
達郎は、静かに金沢南西消防署を後にした。
大阪のマンションに戻ると留守番電話が点滅していた。達郎は、録音再生のスイッチを押した。
「えー、わたくしは、金沢南西消防署の金丸と申しますが、えー、これは大したことではないと思いますが、あの日、奥様が言っていた言葉に、だんなさまのお名前の他に、テンチョウ、テンチョウと、二度ばかりおっしゃられていたのを思い出しました。えー、つまらないことで、お役に立てないとは思いますが、念のためご連絡いたします。それでは失礼いたします」
テ、テンチョウ……テンチョウとは何のことだ。ラーメン屋の店長か寿司屋の店長か、それともハンバーガーショップの店長なのか。まったく予想がつかない。
ただ、店長という以上、どこかの店の店長であるのには間違いない。達郎は、智子の知人、自分の知人で店長という肩書きの者がいるかどうか、必死で思い出そうとした。
しかし、心当たりは全くなかった。
普通店長とは、どんな時に呼ぶのだろうか。たとえば、ある店が単独で一ヶ所だけで営業していれば、そのトップのことを店長とは呼ばずに、社長とか、和食系飲食店ならお頭とか大将と言うはずである。
店長という呼び方をするのは、その店の他にも、いくつかの本、支店があって、つまりその会社が複数の店で経営している場合が多いはずである。チェーン店などが良い例だ。たとえば、寿司屋を経営していた場合、一軒だけであれば、お頭と呼ぶだろうし、チェーン店の一つであれば店長と呼ぶ。
智子が口にしたテンチョウというのは、いったいどんな業種のどこの店長なのだろうか……達郎には、どうしても思い当たる節がなかった。
いずれにしても、シンノスケとテンチョウ、それが達郎のことではないのは間違いがなかった。やはり、智子には男がいたのだろう……智子に男がいたなんて信じられない。いつ、どこで知り合ったのだろうか。勤務している会社にいるのはさえない男ばかりで、どうしようもない、といつも非難していたから、社内にいる男とは思えない。だが、いないという確証もない。
達郎は、もう一度、通夜、告別式の記帳票をめくってみた。
しかし、シンノスケという名前はどこにもなかった。シンノスケという男は現われていなかった。ということは、我々の前に、顔を出せないということか。もし、智子がこのシンノスケという男と浮気をしていたとしたら、当然シンノスケは我々の前に現われることはできない。
よく、テレビドラマや映画で、亡くなった者の葬儀に、愛人が現われて、焼香をするシーンなどがある。が、実際は、生前二人の関係をひた隠しにしていたのなら、その後に訪れる悶着にも耐えられるだけの余程の自信がない限り、葬儀に顔を出すことはできない。
シンノスケとテンチョウ、この二つは一人の人物の共通項か、それとも別々の人物か……どちらだろうか。達郎は悩んだ。
一人の人間が、死に際で発した言葉であるから、かなりの重みのある内容に違いない。
シンノスケにテンチョウ、達郎は何度も繰り返しながら、考えた末、それらが同一人物であろうと推測した。つまり、どこかの店の店長をしているシンノスケという男、と推定した。
達郎は、何としてもこのシンノスケという店長を突き止めなければ気が済まなくなってきた。
ベッドの中で、シンノスケ、店長、シンノスケ、店長と何度もつぶやきながら、眠りについた。