大名屋敷の庭園 六義園

江戸時代、諸大名は上屋敷、中屋敷、下屋敷を建てて住んでいましたから、武士達だけで江戸の七十パーセントの土地を使用していました。

屋敷にはそれぞれ庭園を設けていましたから、当時の江戸は緑地溢れる都市でした。幕末に来日した西洋人は江戸は何処へ行っても清潔な田園都市だと本国に報告しています。

幕藩体制の崩壊で諸大名は地方に引き上げ、屋敷跡地は広大な空き地となりました。明治新政府は、現金作物栽培のため広大な屋敷跡地を茶園や桑園にするよう奨励しました。

そのため見事な大名庭園は急速に消えていきました。江戸時代から引き継がれて、東京で緑地としての姿を留めている大きなものは、皇居、赤坂御用地、上野公園、六義園、新宿御苑、青山霊園の六つと言われています。

その他には、江戸の大名屋敷で公的な庭園として残っているものに、旧安田庭園、旧芝離宮恩賜庭園、国立科学博物館附属自然教育園、小石川後楽園、池田山公園、浜離宮恩賜庭園、有栖川宮記念公園などがあります。

現在、東京は世界の主要都市の中でも公園の面積が一番少ない都市だと言われていますが、残された江戸時代の大名屋敷の跡地は、西欧の公園と違った上質の緑の空間で、都民の憩いの場になっています。江戸時代の標準的な大名庭園として文京区にある六義園(りくぎえん)を訪ねてみましょう。

六義園は、元禄時代に五代将軍徳川綱吉の大老であり、川越藩主であった柳沢吉保の下屋敷跡です。庭園の構造は、江戸時代の代表的様式の「回遊式築山泉水庭」ですが、柳沢吉保は文芸趣味に長じており、万葉集や古今集から名勝地を選んで、七年の歳月を掛けて、園内に八十八景を見立てた庭園を造りました。

「六義」とは中国の古い詩の六つのスタイルの分類を指すのですが、古今集の序文で紀貫之がこの詩の六分類を援用したことに因んで、柳沢吉保は自らの和歌見立ての庭に「六義園」と名付けたと言われます。

確かに、六義園は、小山、池、岩、流れ、小径が、巧みに配置されており、何処から庭を眺めても、庭の表情が変わるので厭きることはありません。それに園内は隙間も無ければ、余分な所がない名園と言われています。

江戸時代には、水戸徳川家の小石川後楽園にひけを取らないと評判であったのも頷けます。明治時代に、三菱の創業者である岩崎弥太郎に買い取られて別邸となりましたが、その後、昭和になって岩崎家より東京市に寄贈され、昭和二十八(1953)年に国の特別名勝に指定されました。

今では、誰でも江戸時代の大名庭園を散策し、柳沢吉保が庭を眺めながら茶会を開いた茶席で一服出来ます。六義園は、つつじの花が有名で五月が最も賑わいますが、秋の紅葉も良いようで、休日には入園切符を買う列が出来ていました。