Ⅰ
坂道を一つ下りたり、また別の坂を上がったりと、ゆっくり歩き回っているようです。でもどうしても下るより上っていきたい気持ちのほうが勝っています。
上へいけばあのひとに会えるような気がしていたのだと思います。だからぶざまな格好でも何とかこのまま上へ上へと歩み続けたいと思ってしまったのです。
途中で通りのたたずまいとか周りの雰囲気にやっと気づいたのかもしれません。それに加え、気持ちに余裕が出てきたということなのでしょうか、通っている街路の名前まで知ろうとしています。その通りの名前が出ていると見える十字路の角の家に近づいたのですが、そこには文字はまだ損なわれてしまうところまではいっていないのだけれど、驚いたことに古めかしい草書体めいた筆致で町名が書かれています。ほとんど読みとれません。名が書かれた標識は木製のものなのか、新しいタイプの金属製プレートなのかもはっきりとはわかりません。
ともかくそれを眺めておりますと、そこには書体のようなものではなくて、何か暗くぼかされた不明瞭な絵のようなものが描かれているのではという風にも思えてきました。それから私は角にある家だったのか、それとも別の家だったのかはもう今となっては思い出せないのですが、一軒の家の中に入っていったのは覚えています。暗くてよどんだ空気の部屋にいることはわかりました。その部屋には私が入っていったところが入り口とすると、向かい合わせに出口があり、そこへ私は近づいていきます。
そこのドアを開けますと、もう部屋ではなくて開けっぴろげの広い空間に入っていけるようになっていました。踏み出して入っていったところ、中庭のような趣です。どちらかというと陰気な感じで、変な連想でしょうがお寺の境内に迷い込んだように思えました。
すると私のいる所に向かって、斜め向かいの門のような所から大勢の人たちが出てまいります。その中の何人かの人たちは、私がこの庭に出ていく前に居りました暗い感じの部屋の中へ逆に入っていくのです。一人お坊さまのような方もいました。その方が私の傍らを通って部屋に入っていこうとして、私に聞かれるのです。
『失礼ですが一度お目にかかったことがあると思うのですが、どなたさまでしたでしょう?』
『二宮の家の者で、こちらは妹の百合で、私は兄の守と申します』
問われて初めて、答えているのは戸惑っている私ではなくて別の男の人の声で、傍らに兄が同伴してくれていたのだと気づきました。
少し墓石のようなものもあるので墓地のようでもあり、寺の境内か裏庭のようにも見える空き地に出たときには、そばにもう兄がいたに違いありません。お坊さまのような人に向かって兄は自己紹介に加え、私たちの状況を説明しているのです。唐突に兄の存在に気づくというのもおかしなことでした。