幼少期(1982年~1995年)
両親の離婚
「お父さんとお母さん、離婚するんよ。あんたどっちについていく?」
小学2年生の秋、突然の叔母からの一言。大人の都合の押し付けと、こんなに大きな家庭内の問題を叔母から聞かされるということに、小学生ながら両親に対して怒りを覚えた。
私はそんな両親に依存していないことを示すかのように、
「どっちがいいとかない。あっこと一緒にいく」
と表情を変えずに答えたのを覚えている。あっこはまだ1歳にもならない、8歳下の私の妹だ。弟は2歳下だったが、状況がよくわかっていない様子だった。この幼い2人を私が守らなければならないと思った。
父と母はよく喧嘩をしていたが、どこにでもある一般的な家庭だと思っていたので、離婚になることに少々困惑した。でも別れないで!なんて懇願することはなかった。
一旦決まってしまった離婚が、子どもの意見1つで覆らないことくらい、子どもの私にもわかっていた。ちゃんと両親が離婚の理由を話してくれたらアドバイスだってできるし、否定したりしないのに、なんて思っていた。今思い返すと、ちょっとませた子だったのかもしれない。
北九州市戸畑区という小さな町に私は生まれた。決して都会とは言えない町だったが、田んぼはなく、虫やカエル嫌いの私にとってとても住みやすい町だった。
家から徒歩数分のところにある、若戸大橋(若松区と戸畑区をつなぐ)という真っ赤な橋が好きで、よく眺めていた。
生まれてすぐは母の実家近くのアパートで暮らし、すぐに隣の若松区に引っ越した。
引っ越しの理由はよくわからないが、きっと若松に父の実家があったからだと思う。
当時の家の前で近所の子たちと、たらいの中で水遊びをしている写真がある。古い木造住宅にプラスチックのたらい。昭和のいい雰囲気が伝わってくる。