勝願寺 人形供養に参加して
その後も、お正月の歌舞伎やら隅田川のお花見やらに誘われては、いそいそと出かけていった。
その折に、おふじから実家の過去帳があることを聞かされたのだった。十一月には「人形供養会」が行われるので、「ぜひお出でください」とのお誘いがあった。
十一月の日曜日、義妹と弥生ちゃん、私の三人で勝願寺を訪れた。鴻巣市はあまり活気があるようには思えない街並みだったが、お寺は近かった。記憶にあった山門と白い敷石の道は確かにあった。
本堂の脇には、古いお雛様やさまざまな人形が山と積まれていた。庫裏の中では、大勢のお坊様が昼食中であった。おふじは忙しそうに出入りしている。私たちも一室でお弁当をいただいた。
やがて、ぞろぞろとお坊様たちが人形の前に集まり、おふじのご主人である住職と二人のご子息も僧侶姿で現れた。
近所の子どもたちだろうか、まだ十歳には満たない二十人ほどで、男の子は羽織袴、女の子は振袖姿で、やはり晴れ着姿の母親に付き添われて並んでいる。読経が始まり、お線香が焚かれ、人形の山に火が放たれた。薄紫の煙が、枯れ葉の舞う境内を静かに流れていった。華やかで、賑やかな、何やら哀しい供養だった。
法要が一段落してから、私はかつてのお墓を見たいと願い、おふじに案内してもらった。墓地の一隅にそれはあった。
「園田家の墓」、伯母の姓だった。
今は従妹が守っている由。私は門前で求めていた菊の花束を供えて、そっと手を合わせた。
「今日はお忙しそうだから、また改めて参ります。その時、過去帳を見せてください」
と、おふじに頼み、お土産にいただいた五家宝の箱を大事に抱えて、お寺を後にした。おふじは門の外でいつまでも手を振っていた。
(平成十七年)
老画家(その2)
今年は、気象台の観測が始まって以来の暖冬だと連日のようにメディアが報じている。
庭に置いている野鳥のための鉢の水が一度も凍ることもなかった。早々と梅の花が開き始めた二月の初旬、私ども夫婦宛に一通の封書が届いた。
それは、昨年亡くなった画家の遺作展の案内状であった。初日は二月十七日。式典は午前八時四十五分からとある。会場は出雲、画家の故郷である。
生前、画家から作品のほとんどを出雲市に寄贈したこと、その展覧会が開かれることを聞いていた。「そのときは、ご一緒に行きましょう」と約束したのだった。
「ちょっと遠いけれど、やはり行ってさし上げようか」
ということになった。二月十六日、午後、定刻に飛行機は羽田を飛び立った。空はあくまでも青く、雲ひとつなかった。地理好きの夫は窓に貼り付くようにしていた。