ご先祖様は、いつもそばにいらっしゃる

相変わらず、足裏の痛みと喘息に悩まされていた私は、案の定、卒業の頃には、成績がビリで、大学へなど進学できそうにありませんでした。

この学園には、女子短大と、女子大学があり、そこへ行きたくて高校から入学している生徒も多くいましたが、それには定員があり、皆が伝統あるそこへ進学できるわけではありませんでした。

せっかくあるエスカレーターですが、皆が乗れるわけではなく、よその短大や専門学校へ行く生徒もいました。私は、といえば、高校さえ入るつもりがなかったのに、「ご縁」とやらで来てしまって、体が辛いので、無理をせず専門学校へ行こうと思い、資料も取り寄せていました。

ですが、父が、昭和ひと桁の生まれで、地主の家に育ち、旧制中学から大学へ行くはずだったのが、戦後の農地解放のせいで、土地を守るために、農業を継がなければならなくなり、泣く泣く大学進学を諦めさせられた経験者で、自分の子は、絶対に大学へ行かせてやる!と決め込んでいるのでした。

そんな折、父方の祖父母が、相次いで亡くなりました。祖父のあとを追うように、祖母が亡くなったのは、五月五日でした。子供の日なのにと、悲しくて悲しくて、仕方がありませんでした。

そして、ハッと(あぁ、おばあさんは、自分の事を忘れないでいてね)と、そういうメッセージを残して、この日に亡くなったのだなと思いました。祖父は、地元の大阪柏原(かしわら)で、学校の校長をし、その後、教育委員を歴任し、その功績から、勲六等瑞宝章を賜った教育者でした。

なぜだかわかりませんが、私は突然、奮起して、勉強をし始めました。すると、ラストスパークをかけたら、ギリギリセーフで、学園の女子大へ行ける成績になりました。

私は、読書が好きなので、国文学科へ進むエスカレーターに乗りました。これは、きっと、天国にいるおじいさん、おばあさんから、お力添えを頂いたおかげにちがいないと、私は思いました。だから、人は、亡くなっても、目に見えないだけで、いつもそばに居てくれているのだと感じ、私は毎日、ご先祖様にお礼を言うようになりました。