自覚という言葉はおそらく適していない。日が経てば経つほど死という意識を抱かなくなり、自分のことなのだが他人事のように知識だけを身に付けようとしていた。煙草をやめなければならないのに、これもまた他人事のように頭の片隅で誰かが「やめなさいよ」と言っているだけに過ぎなかった。
何かが自分の中で誤魔化されている。それは仕事だったり日常だったり知識だったりする。なんだか他人事のように楽観的で、恐怖とか悲しみとかそういうものがイマイチ湧き起こってこないのだが、何気ない瞬間に思い出すのだ。
例えば、仕事に少し慣れてきて気持ちも軽くなってきて、なんだかこれからしばらくはなんとかなりそうだな、と思いながら駅の階段を足取り軽く降りている自分に気が付く。あれ? 私、なんだか今日は元気だな、あまり疲労が残っていないな、と思いながら駅のホームで地下鉄を待っている時。あ、元気じゃなかった、癌になったのだったと思い出し、カッターみたいなものでチクっと心臓を突かれたりするのだった。
何が辛いって、私にとっては煙草を止めることが一番辛い。まだ止めていないので本当の苦しみなんてものはもちろんわかるわけもないが......。
何事もどん底に手をタッチした後というのは、上向きになるしかない。絶不調期のとどめが癌の手術で、それから後のことは必然的に上を向いてくれるだろう、という希望のようなものが私の中にあることは確かだ。
本を読んでいても、もっと沢山読みたいと思うようになった。ピアノが弾きたい、旅行へ行きたい、色んな人に出会いたい、一人でも多くの友達が欲しい、もっと色んな音楽が聴きたい、そんなことを常々思うようになった。何故だか、人生に対して非常に欲張りになったみたいだ。これを意欲というのだろうか。
たまに自分を笑ってしまうことがある。結局何も見つけられなかったが、ずっと真剣に人生のパートナーを探していたし、一生の仕事というものを探していた。そして自分が腰を据えて過ごせる街を探していた。
何もみつからないまま三十代になって、焦りもある。今までの生き方に対して自己嫌悪もあるが、怠けていたわけではない。身体にいいことを進んでやるタイプではないが、馬鹿にされてもいい。鼻で笑われたとしても、私としては私なりに真剣に自分の人生というものに対して向き合ってきたのだ。それなのに、こんなところで自分の人生が何の意味もなく消えて行くと考えると、生きるとはなんて無意味なことなのだろうかとさえ感じてしまうのだ。
しかし、手術が無事に終わり、病気を克服したら、これからも長い人生が続く。結果的にはこの歳でこのような経験ができるということは、きっと私にとって絶大な財産となるだろう。
癌になったにもかかわらず、私は街を歩く度に嘆いていた。なんて退屈なのだろうかと。それは札幌にいても富山にいても東京にいても同じだった。物凄くいい小説を読んだ時の達成感と満足感。そういうものをどうして街に感じることができないのだろうか。
「よし、さらに別の作品を読んでみよう」
そのような期待感をもっと日常の中に抱けないものだろうか。そりゃあそうかもしれない。人に使われ、限られた領域の中で生きていれば窮屈さを感じるのは当然かもしれない。しかし、一日中家にいて外の空気が吸いたくなるような気分を、街を歩きながら感じる。日本中どこへ行っても退屈なのだ。空気が美味しかったり、景色が鮮やかなのは一瞬だ。