レディ・チャーチル

「貴女に最もよいご婦人を紹介しましょう」と客席に戻った彼は一人の婦人を伴ってきた。目鼻立ちの整ったふくよかな顔、一目で上流階級の婦人とわかる気品のある容姿、この人こそ時の海軍大臣チャーチルの母堂であった。ウィンストン・チャーチル(一八七四〜一九六五)は英国軍人の鑑とされるマールボロ公爵の敬称をもつ家柄の父と、ニューヨークの名家ジェローム家出身の母との間に一八七四年に生まれているからその時は四十歳、その母堂は六十歳であった。(23)

レディ・チャーチルは十月二十四日にロイヤル・アルバート・ホールで開かれる「愛国大音楽会」の打合わせのためにクイーンズ・ホールにウッド卿を訪ねていたところであった。

この音楽会開催の趣旨は、戦時の傷病者、捕虜、難民など、戦争犠牲者の民間救護団体である赤十字の活動資金を得るためのもので収益は英国のセント・ジョン病院に寄附する目的をもっていた。レディ・チャーチル等がその発起人となり、英、仏、伊各国の音楽家が参加していた。

環がウッドに第一回の手紙を送った頃にはこの音楽会の企画は進行しており、彼が同盟国日本の声楽家ということで環の存在を意識したとも考えられるがその辺りのことはわからない。ウッドには自伝を含め三冊の著書があるが環についても触れている。(24)