自分が誰なのか、自分がどこにいるのか。誰を愛し、誰に愛されているのか。どこへ行こうとしていて、何を求めているのか何もわからないのだ。心臓が動き、息はしてはいるけれども生きている実感がない。
全てが目の前で起こっているけれども、夢の中で見ているような曖昧さがある。胃の中に何か重たいものを放り込んでしまったようなずっしりとした嫌悪感だけを抱えて、日々を過ごす。それはあまりにも寂しいことだ。
どうして皆、あまりにも普通に生きているのだろうか。
いや、単にそう見えるだけなのだが、そう見えてしまうのは喪失感の中にいる疎外感から来るものだ。そして、一人部屋へ帰ると、ふーっとため息が出たりする。
そんな日々を送りながら考えることがある。
私の場合は何のしがらみもなく、どこまでも自由というものを与えられているが、心は全くと言っていい程自由とはかけ離れている。
臆病者で、人の顔色を気にする。言葉一つ発するにもびくびくしながら、いちいち頭を使って話をする。そんな殻を破りたいから突拍子もない行動に出たり、敢えて腹の中にあることをズバッと言ってしまったりする。そして、またびくびくする。本当にこれを言ってしまって良かったのだろうか。いや、確かにここでは誰かがハッキリと言うべきだったのだ。
だから私の発言はきっと間違っていなかっただろう、という確認作業に入る。しかし、私は全く気にしていませんよという態度を取る。何も考えず、腹の中にあることをズバッと言って、後には引きませんよという振りをしているだけだ。本当は、考えて、考えて、恐る恐る発言し、時に自己嫌悪に陥ったりしているというのに。
好きな人に対して、好きと言えないのも一つだ。会いたくても会いたいと言えない。あんまり言うとうざいと思われるのではないだろうか。勘違い女だと思われても困るから様子を見てからにしよう。そんなことばかり考えてびくびくしながら相手の顔色を窺うかがったりしている。嫌われるのが怖いからだ。しまいにはそんな自分に疲れてしまって、なんとなく自分から遠ざかってしまうこともある。
一体私のどこが自由なのかと思ったりもする。行動に制限がないというだけで、全く自由に生きていない気がする。もっと楽に生きる方法が必ずあるはずなのに。
つまり精神的に自由に生きている人への果てしない憧れがある。それは人に対して無神経に生きている人という意味ではない。堂々と、臆することなく、伸び伸びと生きている人のことを指す。そんな憧れから、私はロックを聴くようになったのだ。ジムモリソンが大好きで、あんな風になれたらどんなにいいだろうかと気の弱い私はいつも思っていた。
時にジムモリソンのように自由奔放に振舞ってみたりする。しかし、何をするにも勇気を振り絞らなければならない。それは、本当の意味での自由ではないということに気が付いたのだ。
信頼関係においても同じことが言える。この人のことを頑張って信頼しよう、というのは本当の意味での信頼ではない。この人のことを好きになろうと努力するのは、本当の意味で好きだとは言えない。誰が何と言おうが疑いの心など持てないし、私はこの人が好きだと言える意志の強さに対して、素直に身を任せればいいのだ。
信じて裏切られることについても本来は怖いというのが当然だが、最近は怖いと思わなくなった。信頼が崩壊した時、明らかに喪失感に包まれる。しかし何故信じたかと考えると、どうしても疑うことができなかったからだ。
信頼していた人に何かのきっかけで裏切られたとしても、それも自然の流れなのではないだろうか。そこに喪失感がないといえば嘘になる。しかしその喪失感が怖いか、と聞かれれば怖くないと答える。
そう考えると心がとても楽になり、目の前に広がる世界が少しばかり開けて風が吹き抜ける。
疑いの心を持たずに信じるのは馬鹿だとされることについて長い間考えたが、それでいいんだと思った。自分と世間のギャップというものに直面すると喪失感に苛まれ、途方に暮れてしまい、この世の中で生きて行くことにさえ希望を見出せなくなってしまうのだが、ひたすら考えてある地点に到達した時にあるものがある。
それは風と光であって、自分の心の中にしかないのだ。
街を歩いていると人々が普通に生きている。その姿がどんなに自分を傷付けるかということは、喪失感の中にいる人々にしかわからないことかもしれない。街を歩くということは、時に逃避になる。人混みの中に身を投じることで、自分を無とすることができたりする。
人がいる空間で読書をするというのも一つの逃避だ。自分だけの世界を作ることができる。そして一人で部屋にいて読書をするよりも、大勢の中で読書をする方が圧倒的に集中できたりする。それは心のどこかに逃避願望が隠されてのことではないだろうか。電車の中、会社の休憩室、喫茶店、人がいる空間で自分だけの空間を作ろうとする時には読書は最適だ。
本を閉じ、また街を歩き始める。その瞬間、自分と他者のギャップに気が付くことがある。