壊れた時計

自分の思考と世の中の動きが全く噛み合わず、私は未だに迷い続けている。音は聞こえ、目に映るものを眺めながらも、自分一人が別次元にいるようだ。

昔の映画のように、実はもう自分はこの世にはいないのに、自分が死んだということを知らずに現世を彷徨う。普段と同じように生活をしようとするが、少しずつ違いに気が付くのだ。

そして知る。自分はもうこの世には存在せず、誰にも見えない形で現世に再び舞い戻っただけなのだと。そして、もうじき行かなければならないということにも気が付く。今の私はそんな感覚である。いや、もしくは意思の問題でもある。

例えば十人からプロポーズされるとする。その中から自分の意思で一人を選ぶ。そんな単純なことすら今の私にはできないような気がしてしまう。十人から、いつかお前を迎えに行くと言われるとする。私が待つのはたった一人なはずなのに、その一人が誰なのかわからない。これは完全に意思の問題だ。

どこにいても、何をやっていても、誰といても、自分の意思というものが明らかに欠落している。腹が据わらず地に足もつかないのである。意思がなくなって行くというのか、自分のことがまるでわからなくなって行くというのか。

私はいつからこんな状態になってしまったのだろうか。きっかけというものがあるはずだ。あることをきっかけに自分の意思がぼやけ始め、何もわからなくなってしまったのだ。

しかし、そのきっかけすら思い出せない。最近は、わからないということが自分の中で多大なストレスとなり、自己嫌悪へと導く。本当は誰も私のことなど待ってはいないし、誰も私を必要としていない。それなのにまるで全ての人を待たせてしまっているような後ろめたい気分になったりする。

本当は誰も待ってなどいないのではないかと寂しくなったり、この世に私の存在を必要としている人などいないのではないかと怖くなったり。全く気持ちが安定しないのだ。新しい仕事が決まれば変わるかもしれない。

昔、ある小説にこんなことが書かれていた。何もわからなくなってしまい、苦しんでも何も答えは出ないのだが、長い年月をかけてわかったことが一つだけあると。

それは、自分という存在はとっくに壊れた時計なのだということだ。わからなくなってしまったという意識よりも、とうの昔からとっくに壊れていたのだ。壊れてしまった時計は、どんなに電池を変え、どんなに秒針を合わせても、また狂う。