雨に唄えば

今日、「雨に唄えば」は、一般のファンはもちろん映画研究者や批評家からも、ミュージカル映画史上最高の作品と考えられている。

事実、これまでに行われた歴代作品の人気投票でも、「市民ケーン」や「七人の侍」など多くの名作と共に上位に名を連ね、ミュージカル映画としては常にトップの地位を保ち続けている。まさに映画史上のクラシックと言える作品になった。

しかし公開当時、その評価はさほど高いものではなかった。大方の認識は、良くできたミュージカル・コメディーの一つといった程度に過ぎなかった。翌一九五三年のアカデミー賞でも作品賞にはノミネートされず、助演女優賞とミュージカル映画部門の音楽賞にノミネートされたに過ぎない。

前年のアカデミー賞で「巴里のアメリカ人」が賞を総なめにした影響を割り引いても、一般的な評価はこの程度であった。しかし、一九五八年の米国での再公開や六十年代半ばからのカラーテレビの普及、七十四年のアンソロジー映画「ザッツ・エンタテインメント」の公開、そして八十年代のビデオの普及などをそれぞれ契機として、後の世代の人々にも幅広く目に触れるようになった同作は、時代と共にその評価を高めて行った。

そこで、このような高い評価を得るようになった理由を、脚本の内容やプロダクション・ナンバーとの関係、ミュージカルシーンの完成度などから考えてみたい。

「雨に唄えば」は映画製作の裏側を描いた作品で、内容的にはいわゆるバックステージ物に分類される。しかしバックステージ物にありがちな、舞台製作の裏側を人間ドラマとして正面から描くという手法は取っていない。冒頭のインタヴュー場面では、主人公の高尚な言葉とは裏腹に、スターに上り詰めるまでの彼らの情けない現実が映像によって観客の前に晒される。

リナの悪声を隠すための吹き替えや安易な企画変更の内実も明らかにされる。そういう意味では、同時期にハリウッドの内幕を暗部から抉った「サンセット大通り」とは対照的に、ハリウッドのからくりを「明るく暴き出した」映画とも言える。

このようにスターという存在や映画製作の現場をからかうことによって、「雨に唄えば」は映画そのものを外側から見る視点を観客にもたらすことが出来た。その結果、観客の心に余裕が生まれ、映画を楽しむ基本的な姿勢が作り出された。また、映画のストーリーや場面の描き方にも余裕が生まれ、観客が受け入れやすい映画の感触が作りだされた。

このような基盤の上に、映画作りにまつわる人間関係や技術の変化が起こした混乱がサイレントからトーキーへの変遷を舞台にして語られていく。巻き起こったトラブルをユーモアと皮肉に包んで、上手くストーリーに溶け込ませることができた。出来事を引いて見つめる視点とストーリーの進展を素直に楽しむ視点との案配がちょうど良く、最終的には物語を信頼し、ハッピーエンドに仕上げることができた。後年、同じコムデンとグリーンが脚本を担当した「いつも上天気」(55)では、この引いて見つめる視点が行き過ぎ、物語の進行が至るところで分断されてしまった。直接的な風刺が強すぎて、物語に導いていけなかった。

次にキャスティングの成功もあった。これは単に誰それのダンスが上手いとか良い演技をしているといったレベルの話だけではない。オコンナーとレイノルズは親しみやすさと共に演技や存在としての軽みも含めた魅力―「アイドル力」が強く、その結果、観客をスクリーンの壁を越えて映画内世界に引き込む強い磁力が生みだされた。

またヘイゲンの美貌の「程度」も貴重であった。大スターとまでは言えない「B級スター」としての存在感を十分に担保するだけの美貌の程度が過不足ないのだ。さらに目の使い方、素早い表情の変化などの技術が卓越し、コメディーの演技も十二分に素晴らしかった。また、彼女を悪役にしたことで物語の流れに一つの芯が生まれた。

これまでジーンが出演したミュージカル映画の中で、リナほどはっきりとした悪役は「踊る海賊」の市長など、わずかな例しかないのではないか。

確かに憎めない悪役ではあるが、主人公らが彼女と対立する構造が物語に生みだされた。その結果、対立にまつわる緊張が生まれ、解決を目指すという目的が明白になった。これによってストーリーが凝縮し、物語が「締まった」。