雨に唄えば
「……アシスタントのキャロル・ヘイニーかジニー・コイン、それにアーニー・フラットっていうタップの先生が一緒だった。私はステップを間違えないようになるまでジーンに帰してもらえなかったの。一日八時間から十時間踊ることもあったわ。完璧主義者のジーンはリハーサル室へ来るとこう言ったの。“OK、習ったところを見せてくれ”そうすると私はカチカチになっちゃうの。彼の気性がわかってるから。それでジーンが来ると何でも間違っちゃうのよ。“やり直し!”って彼は言って、またドアをバタンと閉めていくの。そんなに厳しく稽古をさせるもんだから、時々足から血が出たの。本当よ。でも私はできるってとこを見せたいから、稽古に稽古を重ねたわね。彼は今よりもっとできるようになるって思わせてくれるの。彼をがっかりさせたくなかったのよ。そう、こういうつらい時期が何ヶ月も続いたわね(52)」
隣のリハーサル室にはちょうど「ザ・ベル・オブ・ニューヨーク」(’52)を撮影中だったフレッド・アステアがいた。アステアはよくレイノルズのリハーサル室にやって来ては慰めてくれたと言う。
「“これがみんな肥やしになるんだ。だから気を落としちゃだめだよ”急に涙が出てきて言ったの。“でも私もう絶対ダンスなんか習わない。絶対に!”そうすると彼が言ったの。“デビー、ひとかどのダンサーになりたかったら、やり続けて時間の許す限り努力しなくちゃ駄目だよ。それしかないんだ”彼の言うことが正しいの。それしかないのよ。でも私にはすごくつらかった。私以外、みんなとっても楽しそうに見えるの。私は覚えることが多すぎて、時間が足りないの。ジーン・ケリーみたいな一流のところへ放り込まれたら、楽しむなんて無理よね(53)」
しかし、レイノルズにはかわいらしい外見とは裏腹に、強い体とタフな精神が備わっていた。ジーンによれば
「幸いなことにデビーは牡牛のように強くて、レスリー・キャロンと違って何時間も練習ができた。それに彼女はまねするのが上手くて、大した苦労もしないで複雑なダンスを覚えることができた(54)」
オコンナーは三月から五週間のイギリス公演を行っていたが、予定を一週間早めて帰国し、四月下旬からリハーサルに加わった。しかしプロダクションナンバーのいくつかはその内容も固まっていなかったため、振付けが決まり次第、他の撮影と並行しながらリハーサルが行なわれた。