六月十八日から撮影が始まった。現場ではジーンとスタンリー・ドーネンがそれぞれ別のシーンを撮影することも珍しくなかった。ジーンによれば、
「スタンリーには、“あっちで例のシーンを撮ってくれ、僕は自分のナンバーの方をやるから”と言うこともよくあった。あれは僕らの素晴らしい相互依存であり、自立的関係でもあったんだ(55)」
ナンバーの撮影も進行していった。発音教室でコーチを前にドンとコズモが歌い踊る“モーゼス・サポーゼス”を皮切りに、タイトルソング“雨に唄えば”や六十万ドルの予算をかけた“ブロードウェイ・バレエ”などのナンバーが次々に撮影されていった。途中、撮影監督の交代も起こった。
ヴォードヴィルの舞台でドンとコズモがバイオリンを弾きながら歌い踊るナンバー、“フィット・アズ・フィドル”の撮影時に、場面が暗くなりすぎるという理由で、ジョン・オルトンから「踊る大紐育」でカメラマンを務めたハロルド・ロッソンに替えられた。
十一月二十一日に撮影終了パーティーが開かれた「雨に唄えば」だが、十二月にも一部のシーンの追加撮影が行われた。それと並行するように催された公開試写の結果はおおむね好評だったが、フリードは物語の流れを妨げるナンバーや場面を削除し、公開版を完成させた。
だが、五十二年三月のアカデミー賞で「巴里のアメリカ人」が各賞を総なめにすると、ドーア・シャーリーはそのチャンスを活用しようと考えた。
三月後半に同作を再公開するとともに、経費を抑えるため「雨に唄えば」の宣伝費を削った。そのような逆境にもかかわらず、三月末のニューヨークでのプレミア公開を経て四月から全米で封切られた「雨に唄えば」は、製作費二五四万ドルに対し興行収入七六六万五千ドルの大ヒットとなった。